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(5) 足るを知る

電話のベルが鳴るのが怖い。

カウンセリング・ルームの電話が鳴るたびに大げさな様だが全身が震えるのである。

「昨夜も全然眠れませんでした。医者からいただいている睡眠薬も効いているかわかりません。こんな毎日いつ倒れてしまうか不安で不安で、家の事も一切出来ません。もう死んだ方がましです」

涙ながらの訴えで、ほとんど聴き取れない闇からのような電話を受ける。

「息子が引きこもって十五年になりますよ。部屋の雨戸とカーテンは閉めたまま、トイレに来る以外には部屋から出ることはありません。風呂には一年以上入っていないと思います。息子のことを思うと胸がしめつけられる思いで、絶望の二文字が頭から離れません。幸いと言うべきか、夜中に冷蔵庫をあさって食べてはいる様です。ごめんなさい、来週カウンセリングの予定でしたが、それまで持ち堪えることができなくてごめんなさい」

蚊の鳴くような声である。

毎日ではないのだが、このような電話に立ち合うことが私の仕事なのである。

クライアントは自らの背負った現実に戸惑い、不安に苛まれ圧倒されているのである。その現実から逃れたい。他家の子供の様に毎日元気で勤めに行って欲しい、何で私の人生はこんなに不幸なんだと・・・。

考えたらそれは当然の思いである。人は力量以上の荷物は背負えないし、出来たら安心出来る毎日であって欲しいと思うものである。

これが私の生業である。

だから、クライアントの訴えを、悲しみを、やり切れなさを受け止めようと、出来もしないのだけど命懸けになる。この訴えに応えられる解答はない。ただ傾聴し、クライアントの重い重い荷の片棒を担ぎ、一緒に歩いていくしかないのである。これで私も精いっぱいなのだ。

四六時中私までもが沈んでいる訳にはいかないから、せめて昼休みぐらいは気分転換することにしている。

「スイッチOFF、スイッチOFF」

と・・・、つぶやいて器用に何もかも頭の中から消すことにしている。この号令は良く効いているらしくて効果は絶大であるから、ぜひお勧めする。

日頃のだらしない自分に戻り散歩に出ることにする。昼休みと言っても昼食は摂らない。高尚な理由があるわけでなく、亡くなった高倉健さんが一日一食だと聞き、一日一食主義を通している。高倉健さんが好きなのである。

事務所の裏に公園があり、まずはそこのベンチに座る。居るのはハトと年寄りばかりである。そう言う私が一番の年寄りではあるが・・・。ただ、毎日保育園のチビっ子と保育士の先生方のゲストが公園に来てくれるのが幸いである。顔見知りになっている十数人のチビっ子に四人の先生たちだ。

ほほえましいのは、大型の乳母車に四・五人乗せられ、あとの数人は手を繋いで並んで歩いている集団が向こうの方からやって来る間、先生が見繕ってか、歩いているチビっ子を乳母車に乗せ、中の子を外に出して歩かせる入れ替えがあることだ。歩いて疲れていそうな子と、乳母車の中の元気な子を入れ替えているのだろう。先生方の観察眼は大したものだ。おかげでチビっ子たちは公園まで安全に散歩に来られるのである。

このサプライズのおかげで私は元気が維持出来ている。

半世紀も前の話で恐縮だが、大学に進学して上京した年の秋、お袋から文部大臣賞を貰ったよ、と連絡が来た。川柳である。

"父母がいる   その幸せに   気がつかず"

情けない愚息への、母からの痛烈なメッセージなのである。

母の凄い文学センスに驚くと同時に、自身の愚かさに気づかされ、穴に入りたい気にさせられたことが昨日のことの様に強烈な記憶として残っている。

徳川家康の座右の銘は「足るを知る」だと聞いている。母もあの家康と同じことを言う。

私たち人間の欲望は際限がない。財産はあった方がいい、百万円持てば二百万円あると幸いだ、アパートより持ち家一軒家が欲しい、出来たらワンボックスの大きな車が欲しい、SEIKOよりROLEXが欲しい、新婚旅行は熱海は嫌だ海外が良い、子どもは勉強が出来て欲しい、そして有名大学に入り大企業に就職してくれたら・・・等々、本当に際限がない。

これは結局のところ満足する点に到達すると、その上を望むという際限のなさを指すことに他ならない。

わからない訳ではない。ちょっぴり私の中にもそんな傾向の思考らしきものはある。しかし、よく考えてみたらこれは不幸な思考ではないだろうか。結局のところ、これが安心、これが我が「分」だと、自身の置かれた立ち位置のありがたさを感じないからだ。

幸せって言うのは、「分」をわきまえ今あることに感謝し、ありがたいことです、おかげさまで・・・と感じる力があることが生むのではないか?と、母と家康から教わった。つまり、「思考」と思考の次に生じる「感情」が決めるのではないだろうか。

私の生業を通して本当にクライアントにお伝えしたいのは、入力した現実をどう受け止めるのか?

そして、どの思考を通じてどの感情を充てるのか?で決まるものであることである。

しかし、渦中にあり絶望に埋まってしまっているクライアントにはなかなか通じない。前回に書いた「啐(そつ)」が備わらない限り難しいことである。そんなクライアントの方々を絶望の淵から掘り出し、先に光を見て頂く為のスコップを未だ私は持ち得ない。

そんな私でしかないが、今日もカウンセラーであり続けている。


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