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(4) 啐と啄

口惜しいけど理屈が通っていて本当に正しいと分かりながら、なるほどと腹に落ちないことに出合うことがよくある。

「あんたの言うこと、なるほどと思うよ。頭では分かるんだけどね、どうもすっきり腹に入らないんだよ」とか、

「きっと先生の言う通りだと思います。でも、何だかピンとこなくて良く分からないって言うか、分かったって大声で答えられません。だから残念ですけど、明日からそうしますと約束できません」と、よく言われる場面で小さくならざるを得ない。

確かに私自身もたびたびそんなことがあるから、人をだからと言って責めたり出来るものではない。

日常生活のあらゆる場面に、私たちが生きる為に必要で気づかねばならない事柄が山ほどある。残念なことに、参考に出来ず漫然と通り過ごしてしまう。

禅宗の教えの中にこんなものがある。

修行僧たちが悟りを求めて日々修行を修めている。禅堂で瞑想し、仏典に学び、お経を詠み、作務を執る。その命懸けの修行からしたら、気づきたい・悟りたい動機は充分であろう。

師である高僧の先生方も、自らが瞑想し、仏典に学び極めようとなさりながら、学人である修行僧たちを導こうと観察されているに違いない。

そんな中、師である高僧の心と、学人である修行僧の心が投合し合う瞬間があると言う。禅宗では、この瞬間を求めて修行に命を懸けると言われている。

その学人である修行僧の心が、求める心の充実とその動機の強さから、今迄の自分から大きく飛躍しようとする瞬間を「啐(そつ)」と呼ぶ。それは卵の中のひな鳥が、
「ぼく充分育ったからもう生まれるよ!卵の殻から出よ!ヨッコイショ」
と、中からくちばしで卵の殻をつつくことがそれである。これを禅宗では大切にしていて、「啐(そつ)」と呼ぶらしい。なるほど、口へんにつくりは卒業の卒である。口で卵の殻をつつき、卵を卒業すると言うことであろう。

凡夫の私にも良く分かる話である。

さて、「啄(たく)」であるが、弟子である修行僧たちの変化を、逸してはならない好機に具合よく合致して、それを逸さない観察眼を持ち、一期一会のその機会に悟りを助けることと、親鳥が卵の殻の外からつついてヒナのふ化を助けること・・・これが正に「啄(たく)」である。

悟りの世界もひな鳥のふ化も、この「啐(そつ)」と「啄(たく)」のタイミングが一致しないと、ひな鳥のふ化はないし、僧の悟りも開かれないに違いない。


昨年のことであった。自宅の門から玄関までのほんの四・五メートルの傍らにボウガシが植えてある。

三十五年ほどになるから、かなりの大木である。

残念ながら樹木の剪定などに全く興味がないから伸び放題である。また、生きものを人の手で操作すべきでないと理屈をこねて知らんふりして来た。ところがである。電柱から我が家に電気を引き込む電線に、この伸び放題に放ったらかされたボウガシの枝が電気を止めてしまうのではないかと思えるぐらいに邪魔していて、剪定せざるを得なくなってしまった。

庭師さんは知り合いに居ないし、どうしたらいいのか困って、シルバーセンターに相談して剪定していただくことにした。

それはそれで良かったのだが、少し前からそのボウガシにキジバトが巣をつけたらしく、毎日毎日卵を交替で温めている雌雄のキジバトと目を合わせていた。そこらあたりの事情もシルバーセンターの方に話し、キジバトが困らないように剪定をお願いした。

剪定の結果、やはりキジバトの巣に卵が二つあることを知らされた。キジバトに迷惑かけたな、と思い脚立で覗いてみると、うずらの卵の半分もない小さな小さな二つの卵が、本当に簡素というか手を抜いたのかというような巣にコロンとあった。

茂り方がひどかったのか、かなりバッサリと丸裸ぐらいに剪定されたボウガシはみじめで、キジバトの巣が隠れ家になっていないほどになってしまった。

「ハトの巣に卵があるからね。あとよろしく頼みますよ」と、シルバーセンターの方に言われ、それもあって、傘を二本ボウガシにくくりつけ、簡素な巣をカラスと雨から守り抜こうと、過剰防衛ではないかと思うほど囲った。おかげで親鳥たちの巣への出入りが少々不便になった様だったが、敵であるカラスから守ってあげたんだとキジバトに言い聞かせておいた。

しばらくして、ひなが二羽無事に誕生した。セッセセッセと親鳥たちは餌を運び続けた。私も毎日巣を覗き、チビッコたちが無事か確認するのだが、五、六日後にはどれが親でどれが子供かわからない位に大きくなって、無事を確認し安心した。

親鳥とひなの間で「啐(そつ)」と「啄(たく)」が絶妙のタイミングで行われたに違いない。


私は場末のしがないカウンセラーである。クライアントの訴えをひと言も漏らさず聞き逃すまいと耳を傾け、心の痛みを感じ取ろうと懸命である。しかし私には、師である高僧のように、修行僧たちの「啐(そつ)」なる瞬間が見えて来ない。

今だ!と思う瞬間、私は「啄(たく)」なる言葉を探し求め提案を試みるのであるが、クライアントの腹に落ちることはなかなかないというのが事実である。

「啐(そつ)」を調べてみる。いろんな意味があるが「さけぶ」ということであるらしい。ひなが「ぼく出るよ!生まれたいよ!」と呼ぶのである。親鳥にはそれが聞こえるのだ。

「啄(たく)」を調べてみる。長さの単位とある。正に時間の単位、ある瞬間を意味するのではないかと理解できる。親鳥には、それを知る能力が備わっている。頭が下がる。親とは偉大なものである。

やれやれ、凡夫であるカウンセラーは苦労だらけである。今日もこれから気づきを求めて散歩にでも出るとするか。


追憶
キジバトが巣立った三ヶ月ほど後、ボウガシの横のガレージの屋根に二羽のキジバトが止まって私をじっとみつめて動かない。つい「あのひなたちか?来てくれたのか?」と声を掛けた。それでもしばらく動かず、首を動かしながら私を見つめていた。街中にはキジバトはほとんどいない。よく見るハトはドバトと言いキジバトとは違うはずだから、あの子たちに違いない、あのひなたちだ。(これは信じる方だけ信じていただけるなら幸いである。)


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