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不完全な私と、”ととのえ”について

こんにちは、かぜのたみです。今回は、先日久しぶりにリアルイベントを実施してみて、その感想でもないのですが、「なんか思ったわぁ」ということを書いてみたいと思います。ゆくゆくVoicyでも話す予定でおります。

ちなみに、イベントのテーマは「ミニマムライフで私をととのえる〜暮らし、お金、私のととのえ」でした。ご参加くださった方々、どうもありがとうございました!

「不完全な私」の探求

今回のイベントだけでなく、これまでもあちこちで色々な方のお話を伺っていると、ものすごく多くの方が「自分には何か足りていない」ということで、「何かしたいが、したい方向性がうまく見つからない」というので、もやもやと考えられてる最中・・・・というお話をかなり聞いてきました。

足りないところがある気がして、どう補おうかというので、あれこれ模索する件ですね、きっと。それ系のことなら、私もめちゃくちゃわかります。なんか思うところあり、あれこれやってみるんだけど、どうも自分には合わない気がするとか、もっと違うことがあるんじゃないか、、、と迷走しちゃうみたいなことですねたぶんきっとたぶんきっと。

ぬーーーーーーん、悩ましい。

で、ここでいきなりなのですが、ちょっと悩ましい現場を離れ、今日は私の好きな彫刻の話を書いてみたいと思います。

不完全な美、というもの

私がまだ大学一年で講義を熱心に受けていた頃の話です。ひたすらギリシャ彫刻について学ぶ西洋美術史の講義がありました。卒業するための必修科目だったので、他の人と同様、単位取得のために頑張って私も勉強したのです。

教鞭に立つ教授は、ギリシャ彫刻への思い入れと専門知識がありすぎるせいなのか、教授自身もギリシャ彫刻並みに鍛えあげられた肉体の持ち主で、皆で「影響受けすぎやろ」とヒソヒソ話していたのを思い出します。

それはさておき、です。ギリシャ彫刻の代名詞といえば、とりあえず『ミロのヴィーナス』でしょうか。

私は実物を見たことないですが、皆様の大半の方もそうでしょう。脳裏にぼんやり浮かぶヴィーナス程度の印象でOKですので、ヴィーナスをグッと思い出してください。絵画の、貝殻から出てきてる方じゃない方のヴィーナスでお願いします。

その思い出していただいたヴィーナスって、腕ありましたか?

もし腕あったら、それは妄想で埋められてます。だってミロのヴィーナスには腕がないからです。

ミロのヴィーナス

ギリシャ彫刻はパーツが色々出土していなくて、そういう「全然揃ってない」みたいなものが多く、彫刻像のあちこちが欠けてるものがたくさんあります。

あちこち欠けてるものがたくさんある。

勘の良い方なら、私がこれから何を書こうとしてるのかもうお分かりかもしれません。でも一応書きます。

ギリシャ彫刻についてマッスル教授から1年間学んで私の中に残っているのは、”不完全な美”というワード(美の概念)でした。ミロのヴィーナスは、「腕がないからこそ美しい」という解釈がされていると。

ないからこそ美しい

「なぬ!?」です。ないから美しいというのは、美しい=完璧、ものすごくちゃんとしてるもの、とは真逆のことです。不完全だからこそ美しいとはこれいかに。

それを考えるヒントになるのが、このミロのヴィーナスと並んでギリシャ彫刻で有名な『サモトラケのニケ』です。名前だけ聞くとすぐに像と結びつかないかもですが、画像を見たら「なんか見たことある」程度には有名な彫刻の一つです。

私はこのサモトラケのニケの姿を、ことあるごとに思い出します。

サモトラケのニケでは長いので、”ニケ”にしましょう。ニケの美しさも不完全な美の一つで、ニケには頭部と腕がないのですが、それがかえって胸部と翼の力強さを際立たせている、的な解釈を、これもまたマッスル教授から教わりました。

いや、何度見ても素晴らしいですねニケは!

サモトラケのニケ

サモトラケのニケも、ミロのヴィーナスも、いずれも神様の姿を彫刻にしたものですが、神様であるのに「その不完全さが美しい」と解釈されてることは結構すごいような気がします。

さらに、この不完全な美がなぜ美しいかといえば、私たち鑑賞者が、おのおので不完全な部分を補おうとして観るからで、美はその想像の中にあるからよ。。。。的な話もあったような気も。

完全ではないからこそ、私たちに強いインパクトを与え、より美しさを感じさせるのではないか、ということだそう。20年前に受けた講義の内容のまま、自分の記憶が改ざんされてる可能性も大いにありえますが、大体こんな感じだったはずです。

ミロのヴィーナスも、ニケも不完全だからこそ美しい。

「私、腕ないからあかんねん」ときっとヴィーナスは言わない。
「私なんて、腕も頭もないからもっとあかんわ」ときっとニケも言わない。

ね? です。

ね?


私はニケの彫刻の方が好きなのですが、頭や腕がなくても羽ばたきそうな強さがあるから好きなのです。むしろ、進む勢いが強すぎて、もろとも吹っ飛んだ感が自分には感じられ、そういうところがさらにいい。と思って、向かい風に祝福を受けるような、ニケの翼を思い出します。

この印象的なニケの翼は、ナイキの「✔︎」のもとにもなっており、NIKE=ニケ、だったような記憶もあり、です。ニケは勝利の女神で、その翼の力強さと、躍動的な布の表現から醸される、なんともいえんムーブ感は、全体としては不完全であろうとも、むしろ強い印象を私たちは抱き、それって最強やん!!!・・・ってので、ナイキになったってことですね。

「自分には何かが足りてない」と思ったとき、感じたとき、私はニケとヴィーナスを思い出します。

もし彼女たち(女神なのですが!)が完全体であったなら、私もそれほど好きでもなく、他の多くの彫刻のように興味を持たないか、忘れてしまってたかもしれません。

不完全な姿は強いインパクトを与え、多くの人を揺さぶり、なんともいえん感情を呼び起こす。

自分に何かが足りてないと思う時、自分自身はただ不足してることに動揺してるだけなのでしょうが、ニケやヴィーナスのように、動揺ではない影響を、私たち自身も誰かに対して与えているのかもしれないと思うと、そうそう「完全であろう」「あらねば」と思わなくなる気がします。

今もし、ニケの頭&腕とヴィーナスの腕が出土し、修復されて、完全な形に”ととのえ”られたなら。

どうでしょう。

前の方がよかったなぁ・・・・とか言われちゃうんでしょうか。

きっと私たちも同じで、足りてないのか、多すぎるのかはわからんけど、それはそれで不完全だからこそより素敵、と”不完全な美”とやらの解釈を拝借するのも1つかもしれません。

私は美術が好きなので、色々な作品を観てきて思うのは、ニケやヴィーナスのようにものすごく足りてない感じか、千手観音的に「なんでそんなにあるのか」みたいな、両極端なことがやっぱり強い興味を惹かれることに気づきます。そして、もっと知りたくなる。

魅力っていうのは、本当に不思議なものだと、美術作品はよく教えてくれます。

何を素敵と思うのか、何を良いと思うのかは、観る側の感性でしかないのです。

だからこそ、自分の不完全さをそのまま受け入れること、あと、自分の不完全さを「素敵」と感じてくれる人と過ごすことが結構幸せなんじゃないでしょうかね、と私は思います。

そういうものなんじゃないでしょうか。誰かをよく知りたくなるとか、強い思いを持つ時ってのは。

なので、ととのえるって言っても、完全であろうと足したり引いたりすることではなくて、ますます自分の不完全さに磨きをかけることが、結果、自分の魅力を引き出し、強みになるような気がしています。

正しくちょうどよく均一でいたい気持ちを持つのも自然ですが、でも均一ならきっと、次は個性が欲しくなるかもしれません。でもそれも、やってみなければわからないことで、全てはナイキのコピーのまま、本当にJust Do Itです。

完全であれば、維持するのが大変だし、不完全であれば、補いたくなる。なんかそういう「ややこしさ」を、もっとわかりやすくしたくて、私たちは色々ととのえたくなるのかもしれません。

でも、私の経験を振り返っても、自分自身が愛したいものは大体複雑なものが多い気がします。そういう、相手の不完全さには割と惹かれるのに、自分の不完全さは排除したくなる・・・。ああ、なんてややこしい!なんて難儀なんでしょう。

自分をととのえたいと思った時、足りないところはどこと思いましたか?足したいところはどこでしたか?

そしてそれは、あれこれやって、どこまで完全にする必要があるのでしょうか。そんなふうに問い直してみると、お金や生活をちょっとだけととのえて、あとは「それほど力んでととのえなくていいんだ」ということがわかるかもしれません。

誰しもが、不完全なニケやヴィーナスなのです!とまでは書かないですが、まあそういうところでしょうかね。私たちが、誰かや何かに魅力を感じるように、不完全な美はそこかしこにあるのかもです。そう、自分自身の中にももちろん。

愛でよ、己の不完全さを。

ほな、本日もあんじょう!


【そして余談】

ニケのこともあり、NIKEってブランドが昔から好きなのですが、おなじみの”Just Do It”に最近こんなことを見つけました。

↓Google翻訳さんの感性

「早くやれよ」

↓Deep L翻訳さんの感性

「やってみなはれ」

Deep Lさん、こなれてはるわぁ。



とりあえず、毎朝更新してるVoicy置いときます