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"無駄"の中には、感性の種が。

私は無駄なものが好きだ。役に立つかどうかというのは、私にとっては重要ではない。また、大人になって更に、無駄なことも楽しめるようになってきたと思う。

かたや、無駄を毛嫌いする人もいる。でもそれは仕方のないことで。

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先日、日帰りのバス旅行へ出掛けた。
ツアーなどではなく、知り合い25人でバスを貸し切り、鹿島神宮、息栖神社、香取神宮へ参拝をする東国三社巡りを行った。

ちなみに、三社の鎮座位置は直角二等辺三角形を描いているらしく、三社を巡ると伊勢神宮をお参りしたのと同じご利益があるとされているらしい。本当かしら。

香取神宮近くに「佐原」という町がある。私たちはそこで昼食と散歩の時間をとることになった。

千葉県香取市佐原という場所は、伊能忠敬が商人として活躍していた町であり、歴史ある建築物と小江戸の町並みが有名で、古民家を利用した商店や飲食店などが並んでいる。

ふと立ち寄った商店は蔵造りの雑貨屋で、木製の食器類や様々な焼物などがメインではあったが、可愛い置物や手作りの雑貨も並べられていた。集合時間までに時間もあったので、物色をしながら購入を悩んでいると「それ、なんの役に立つの?」と毎回聞いてくるおじさんがいた。

私が手に取ったのは焼物の箸置きや藍染め絞りの暖簾、無垢の木の文鎮などだが、「何の役に立つの?」という質問の意図がすぐには理解が出来なかった。50を過ぎたおじさんが、箸置き・暖簾・文鎮の使用用途を真面目な面で聞くとも思えないが念のため、箸置きはお箸の口に触れる部分が直接テーブルに置かないようにするためのもので…と一応話してみたが、「だからそれは必要なの?なくても困らないよね?」と。

確かに、一人でご飯を食べる時にはわざわざ使ったりしない。でも、来客があったときはテーブルの上に直で置くのは気が引ける。そして、箸置きの存在意義は単に衛生的なことだけではない。

これは母の影響もあるだろう。幼いころから、家でご飯を食べる時は箸置きに箸を置く習慣があった。もちろん毎日毎食ということではないが、夕食のときは箸置きの登場率が高く、母は季節や献立によって箸置きを選び、食卓を彩ることを楽しんでいた。

楽しんでいたのは母だけでない。もちろん私たち家族も楽しかった。夏になるとガラス製の涼し気な箸置きが増えたり、春や秋は桜や紅葉等の植物シリーズが多くなって。メインが生姜焼きの時には、豚の後ろ姿を模ったものが登場したり。おじさんが無用だといった箸置きで、私は季節感や情緒・時にはブラックユーモアを味わった。

だからおじさんの主張を認めよう。箸置きは無くても困らない。

でも、あったらいいな。
ちょっとだけ楽しいな。

私にとっては可愛い箸置きも、絞り染めの暖簾も、無垢の木の文鎮も、そういう存在なのだとお伝えした。

念のため言っておくと、このおじさんは私を困らせようとか、喧嘩を売ってやろうと言っているのではなく、とにかくディスカッションがしたいだけのおしゃべり好きなおじさんで、基本的には仲がいいのであしからず。

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人が何かを判断するときの判断基準は「好き嫌い」「善悪」「損得」などの二極化したもので、今回のおじさんは「役に立つか否か」だった。

でも、役に立たないものに感性を育ててもらったという実感がある。また、基本的に芸術作品なんてほとんどが、社会や生活においては「役に立たないもの」である。

でも、その役に立たないものに心は動く。
絵とか、音楽とか、小説とか、夕焼けとか。

役に立たないと切り捨てた"無駄"の中に、感性の種は隠れているのだ。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。