『ムーンゲイト』を読んで

先日、山尾悠子氏の『ムーンゲイト』を読んだ。
折しも十五夜の夜にこの作品と出逢えたことは偶然ではないのだろう。
古い伝承のような、神話のような、静謐な湖のような、青光溢れる洞窟のような、美しい幻想譚であった。
私はこれほどの神秘性を湛えた物語を他に知らない。
全編に渡り澄み切った水の中を漂っている感覚を覚え、読後には透明な風が吹き抜ける。
静謐な清水湧きいずる泉の湖面のように澄み切った透明感を湛えた類稀なる物語。
この奇跡のような短編小説は、小説なるものがいかに神秘性を宿すことのできる芸術であるのかを端的に示している。
まさに、清冽という言葉が相応しい。

朦朧とした霧に包まれた水の都はヴェネツィアを思わせる。
長い年月を経て老朽化した荘厳な鐘楼の古都は、すでに崩壊の予感を孕んでいる。
格調高い文章が謎めいた城館の秘密へと誘い、古いお伽話めいた妖しさを湛えている。

銀沙の瞳を持つ少年奴隷、城館に住む高慢なお嬢様。
この設定の時点ですでに面白い。ロマンティックである。
個人的には「セカイ系」という言葉はあまり好まないが、あるいは、この作品もある意味で、その範疇に分類されるのかもしれない。
尤も、恋愛要素が殆どないのが特徴であり、その意味では、男女の恋愛が世界の危機に直結するという「セカイ系」の典型からは外れると思われる。

冒頭、記憶喪失の少年奴隷の過酷な船内生活の描写から始まる。
そして、水蛇との出会い。水蛇の本当の名前は最後まで明かされなかった。同様に、少年の名前も明かされない。それも作品の奥行きに一役買っているのかもしれない。
多くは明かされず、不可思議さと破局の予感を孕みながらもゆっくりと事態が進行してゆくのは、『ラピスラズリ』でも顕著であったが、ミステリアスな緊張感を保つ上で有効に機能していると言える。

本作を再読し始めた時、私はこのように感じた。
ーー破局の運命(さだめ)が解っているからこそ、そのたった数ヶ月間が貴石のように輝いて見える。
「happily ever after」など許さない。その冷徹な神の手で楽園を崩落させる。例外は決して許さない。
その潔い冷徹さが、かえって、一瞬一瞬の輝きを増している。
「一期一会」という言葉がある。「永遠」など存在せず、諸行無常、万物は流転する。その中にあって、ただ一つの出会いが彼らの人生を決定付けた。それは「運命」と呼んでも差し支えないのだろう。
作中で言及される予言、「月がその面から覆いをはらい去る時、光は水に、水は光になる。その中で鳥と魚が交接し、滅びの道がひらかれる」。
鳥は銀眼であり、魚は水蛇であろう。彼らはあの崩壊の時、混じり合って一つになり、大水へとその姿を変えたのだった。
それは古より定められていた運命が成就したと見ることができる。
あるいは、本来の意味での予定調和と言うこともできるのかもしれない。
『ラピスラズリ』で顕著であるが、予め定められた結末を作者が物語中で仄めかす箇所が何度も出てくる。
それは「滅びの予言」と同義と言えるだろう。
破局の予感を孕みながら事態が進行してゆくのがこの作風の真骨頂であるとすれば、この「滅びの予言」は緊張感を保つ意味があると言えるだろう。

私は、途轍もない価値を秘めた芸術作品、稀有な人形などを見ると、どうしても、それが壊れてしまった時のことを思い浮かべてしまう癖がある。
人形展で人形の前に立った時、「いま私が体のバランスを崩して、人形の台座に触れてしまったら、この人形は落下して粉々に砕け散ってしまうだろう」という嫌な予感が脳裏をかすめるのを止めることができない。
それが貴重であればあるほど、それが壊れてしまった時の絶望の大きさを想像せずにはいられないのである。
このことは、もちろん、人間関係においても敷衍することができる。「永遠の幸福など存在しない」という概念である。
その意味では、滅びの運命が定められた山尾悠子氏の作品たちを見ると、上記のような感覚を基盤にしているような気もするのである。
その解釈が的外れであったとしても、途轍もなく貴重なものが壊れてしまった時のことを想像する脳内のシミュレーションを、小説の世界で具現化してもらうことにより、それがかえって、ある種の安心感を与えられるようにも思えるのである。
もちろん、ハッピーエンドを否定するつもりはないが、「永遠に幸せに暮らしました」というのは現実的ではなく、「ある日、永遠に続くかと思われた幸福に終わりが訪れました」と続けたくなるというのは、私一人の性癖ではないのではないのだろうか。

祝祭と旅立ちの場面は、この作品の大きなスパイスになっている。本作を第一部と第二部に分けるなら、ここであろう。
それは城館でのささやかな幸福の日々の終焉でもあり、ゆえに、胸が締め付けられる。
限りなくドラマティックであり、この祝祭の様子は西欧の、スペインあたりが思い浮かぶが、モチーフがあるのだろうか。
極彩色の光の奔流の後、幽玄な渓谷を巡る静かな描写が続く。
この動と静の強烈なコントラストが心地よい。
ハイテンションのままに突き抜ける物語も良いが、このダイナミズムには勝てない。
ここまで美しい物語を私は寡聞にして知らない。

終盤、白塗り顔の巫女が登場するのは西欧風の世界観にあってはやや唐突にも感じられたが、水上の神殿である厳島神社を連想するならば、納得できる気もする。
私はその分野に明るくないが、遥か遠海の「常世の国」を祀る概念は本邦にも確かに存在している。

「濡れたような月」という言葉がある。
「水月」という言葉もある。「鏡花水月」という言葉もある。泉鏡花はここから名を取ったのだろうか。なんとも幻想的なイメージである。
あるいは、アニメ映画の『崖の上のポニョ』もそうであったが、「月と海」あるいは、「月と水」を結びつけるモチーフには、古くからの由来があるのだろうか。
古くから月の運行と潮の満ち引きの関連性は周知であったようであるから、当然の連想ではあるのだろうけれども、それだけに止まらない、美意識上の、あるいは、心理的な主題性をそこに見出すことができる気がするのである。
月は海から生まれる、あるいは、月は水が昇華して生まれる、というイメージは、とても神秘性に満ちていて、この神話にも似た物語を貫く神秘性の源泉となっているであろうことは明らなように思える。

銀沙の瞳を持つ少年と水蛇と呼ばれた少女の旅路は、やはり滅びではあったけれども、そこには安らかな眠りがあり、相応しい結末であったように思える。

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