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生き急がない勇気について|テクノロジーと無意識_ *走書き

「慌ただしく生きているとつい忘れてしまう、静けさを、探している。そんな作品を生み出していたいと思う。」

そんなことに想いを馳せている。そんな作品を生み出す人間でいたいのならば、まずは自分が何よりそうあらなければならない。そういうものである。

では私は今日、急須から流れ落ちる水音に、心地良く耳を傾けていただろうか。ただ1秒でも、身体のすべてを呼吸に集中していたときがあっただろうか。

探しているものは、わかっている。正しそうなものも、見えている。しかし、どこかで心は、慌ただしい。

ただ一握りの天才を除いては、だいたい努力がものをいうとか、四六時中そのことを考えて制作に取り組み、熱中できるものだけが成功するとか、人はそんなことを言う。

実際、ほとんど正しいのでしょう。「成功」という言葉は、この溢れんばかりの競争における「失敗」と対にある。巨大な資本を巡りレースを繰り広げる世界では、それは正義であるように映る。

ならば、そうせねばなるまい。しかし、目指す作品はその一本線の上にはないのだ。しかし、せねばならない。だから、焦る。生き急いでいる。

戦う勇気、信じる勇気、勇気というものにも様々あるが、生きることを急がぬ勇気というのは、どうやら思っているよりも難しい。

所詮、わたしたちは何か大きな手のひらの上で踊っているだけなのではないかと、時に思う。何をどうあがこうと、見えざる力がそこに在る限り、わたしひとりがどうあろうが大した違いはないはずである。ただ、死ねばすべてが解決するわけではないらしいということは、なんとなくわかる。なぜかまだ、生きているからである。

宇宙のこと、この世界の物理のこと、生物のこと、たいていあてはまるのだ。ならば、わたしが今この意識下で考えていることなど、至極ちっぽけで、あっけないものに過ぎない。

近現代、常に拡張されてきたわたしたちの意識の世界は、無限に広がるはずの無意識の世界を淘汰しようとしてきた。

テクノロジーも、そこにのっかるわたしたちの根源的には人間中心的な思想も(エコやサステイナブルという言葉も、広義にはここに含まれる)、どれも近現代を象徴するような、人間的で意識的なものである。

翻って無意識的であるとは、まさにわたしたちの意識の外にあるすべてであるということができる。
それは自然そのもの、ひいては世界の理までを含む、静かなる「流れ」の系譜をひくものであると思われる。

そこにいることが正義ではない。それすらもきっと、わたし一人という枠の中での、小さな小さなエゴにすぎないのであるから。

だから多分、それはわたしにとっても、夢なのだと思う。容易く見ることができるはずなのに、見る勇気のでない、夢である。

作品を生み出すとは、わたし自身を映す所作であるが、また同時にそれは、ひとつの挑戦であった。そんな当たり前らしいことに気づいた。

ひとつの作品が、正解を提示することなどできない。そんなことは、あってはならないことなのかもしれない。

ならば、誰かにこんな思いをして欲しくて、こんなものを届けたくてつくる、ではなく、自分も今、探していることを、共にみつめるような作品であってほしいと思う。

作品とは、考えるためのものではないのかもしれない。そこにあって、ただ目で見たり、肌で感じたりするものである、というほうがいいのかもしれない。

わたしたちはただ、出会うだけなのだ。ひととひとが出会う。ひとと作品とが出会う。出会ったときに起きることが、ただ起きるだけだ。

次は、今までよりもまたひとつデジタルな世界に、ロマンも、憂苦も、どちらも詰まった世界に、作品を置いてみたいと思う。

身体性も、手(間)も消失していく世界で、テクノロジーの意識の真っ只中で、夢を見る。本当に手で触れているような、である。

無意識という世界は、沈黙という在り方、状態は、どんな作用を起こすだろう。どんな反作用が、返ってくるのだろう。

そんなことを浮かべながら、またわたしは意識の世界で苦しむのである。その繰り返しである。

対岸は、まだ遠く。それが対岸であることすらも、不確かなままで。



走書き。さくら はじめて ひらく。

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