大切なものは失ってからしか気づけない
寒い日が続いても気づけば冬が終わるように、暑い日が続いても気づけば夏が終わるように、大切なものは失ってからしか気づけない。
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SNSを通してたくさんの人に出会った。noteでもTwitterでも数え切れないほどの人たちと連絡をとり、会って話した。誰かの怒りに触れたり誰かの傷つきをみたりしたけど、それらは大したことではなかった。
最も悲しいことは、仲が良かった人と唐突に連絡が取れなくなることだった。喧嘩別れならまだいい。嫌われるのもまだいい。前触れなくコミュニケーション範囲からいなくなり、連絡がまったく取れなくなってしまうことが最も悲しかった。糸がぷつんと切れてしまうような別れが、ごくまれにある。
同じようなことは現実の人間関係でも起きる。友達でも恋人でも家族でも別れはいつも唐突だ。どんな場合でも、別れの可能性は決してゼロにならない。
連絡が取れなくなったり別れたりしても、その人の存在が自分の中からなくなることはない。その人の記憶は自分に存在するが、コミュニケーションできていたときと比べて存在の形が明確に変わってしまう。その変化を、大切だったものが変わったことに気づけるのは、いつも変化した後だ。
人との別れの悲しさを考えていたとき、若松英輔さんの悲しみの秘義という本に出会った。その本の言葉をいまでもよく覚えている。
この言葉をみたとき、人との別れは人と出会った瞬間から始まっていることに気づいた。人は慣れる生き物で、心地よい状態が当たり前だと錯覚する。ある人と出会う前と後ではあらゆることが変化するのに、出会う前のことを思い出すことは滅多にない。
始まりがあることは、終わりを内包している。
一度始まったものをなかったことにはできない。人生の中で出会う出来事、特に人に関わることにおいては、なかったことにできることなど、ほとんどない。始まったのなら、続けていくしかない。終わりを早めることはできるけど、それでもある程度は続けなくてはいけない。
逃れられない現実のあり方に気づいたとき、ニーバーの祈りを思い出す。
変えることができないものとできるものを分けて、変えるべきものを変えることに徹するのが賢明な判断だと、自分に言い聞かせる。
出会いが内包する別れや生活が内包する疲労、生が内包する死に直面するとき、目を背けるのではなく、自分なりの向き合い方、自分なりの表現のあり方を考えたい。
自分に寄り添う不安たちを、飼い慣らしたい。
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大切なものは失ってからしか気づけない、という言葉の意味を改めたい。
大切なものが自分からまったく失われることはない。経験は形を変えて自分の中に残るからだ。大切なものが変化するとき、初めてそれを自覚できる。大切なものをより大切なものに変化させることによって、大切なものに気づきたい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。