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旅をする木のように

東京の東側、大きな公園と川に囲まれた、コーヒー屋や印刷所、材木店が立ち並ぶ、この街が気に入ってしまい、半年前から定住している。

「ひらやまさん、おはようございます。今日はどうしますか?」
「おはようございます。ホットのカフェラテ、持ち帰りでお願いします。」
「ありがとうございます。お豆、どうしましょうか?」
「じゃあ今日はコロンビアで。昨日はホンジュラスだったので。」
「わかりました。少しお待ちくださいね。」

家からほど近いコーヒー屋に通い詰め、店員さんに顔も名前も覚えられてしまった。

「ひらやまさん、お待たせしました。ホットのカフェラテですね。」
「ありがとうございます。いただきます。」
「もうすっかり春ですね、今日もよい一日を。いってらっしゃい。」
「いってきます。」


#どこでも住めるとしたら のテーマを書く時、避けては通れない一冊の本がある。写真家・星野道夫がアラスカでの暮らしを描いたエッセイ集『旅をする木』だ。

あの頃、ぼくの頭の中は確かにアラスカのことでいっぱいでした。まるで熱病に浮かされたかのようにアラスカに行くことしか考えていませんでした。磁石も見つからなければ、地図もないのに、とにかく船出をしなければならなかったのです。

星野道夫『旅をする木』新しい旅

『旅をする木』には、星野がアラスカのゆく先々でさまざまな人や動物、風景に出会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかが書かれている。1995年の単行本発刊以降、多くの人を旅に赴かせた名作である。

何を隠そう自分自身も、初めてこの本を読み終えた一週間後、オーロラを見るためにアラスカ行きの航空券を予約してしまった一人だ。

今振り返ってみると、十六歳という年齢は若過ぎたかもしれない。毎日毎日をただ精一杯、五感を緊張させて生きていたのだから、さまざまなものをしっかりと見て、自分の中に吸収する余裕などなかったかもしれない。しかしこれほど面白かった日々はない。

星野道夫『旅をする木』十六歳

アラスカへの旅は、25歳にして人生初の海外一人旅だった。英語もろくに話せない、現地の知り合いは一人もいない、とにかく緊張していた。

前々職の退職が決まったばかりのぽっかりと空いた時間の中で「このままではいけない」という漠然とした焦りを抱えて、旅に出ずにはいられなかった。

その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

星野道夫『旅をする木』十六歳

アラスカ滞在予定2週間のうち、12日経ってもオーロラは現れなかった。居ても立っても居られず、慣れない英語サイトを回遊して見つけたアラスカ在住の日本人ネイチャーガイドに連絡すると、自宅そばのオーロラ観測小屋に泊めてもらえることになった。

ポットいっぱいの温かいコーヒーとともに一睡もしない覚悟でオーロラを待っていたアラスカ滞在最終日の夜11時過ぎ、何の前触れもなく、突然オーロラ爆発が始まった。

アラスカで見たオーロラ

文字通り空いっぱいに広がるオーロラは、畏怖の念を抱くほど美しく、体も心も緊張でがちがちだった自分をやさしく解きほぐしてくれた。

身体性を置き去りにして無限に広がった自意識を等身大に引き戻すための、十分な力があった。

アラスカに来る前には想像もできなかった、自分が今ここで確かに生きていることへの感覚、人が人として生きるために不可欠な身体性、それらの種をもらう旅になっていた。

東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何か良かったかって? それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと… 東京に帰って、あの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたのだけど、やっぱり駄目だった。結局何も話すことができなかった…

星野道夫『旅をする木』もうひとつの時間

アラスカの旅から五年半、東京の東側の街に住み始めた今も、アラスカの空で見たオーロラはゆったりと動き続けている。

夜空を見上げる度に「もしかすると今、アラスカの空でオーロラが動いているかもしれない」、1万km以上離れたアラスカの空を思い出す。

今この街で生きているその瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったり流れていることを意識することは、今ここにある世界を相対化する視点をくれる。それは、この街の暮らしを身体性あるものにするための、大切な視点になっている。


或る日の夕方、道沿いの印刷所から灯りが漏れていた。開いた扉の内側に、この街で何十年もお店を切り盛りしているような老夫婦の姿が見えた。

何を印刷しているのか、どんな想いで切り盛りしているのか、ぼくがそれらを知ることはないが、自分の知らない誰かがこの街で確かに暮らしていることに、地に足がつくような安心感を覚えた。

自宅のすぐそばにあるスーパーで買った食料品が詰まったレジ袋を持ちながら、自宅の玄関ドアを開ける。ニューバランス990を脱いで、リビングに続く廊下を抜ける。冷蔵庫のそばにレジ袋を置いた後、薄暗い部屋の隅に置かれたイサムノグチのAKARIのスイッチを引いてから、カリモク60のKチェア2シーターの背もたれに体を預ける。窓の外の街と空が夕陽色に染まっている。

早春のある日、一羽のアスカがトウヒの木にとまり、浪費家のこの鳥がついばみながら落としてしまう幸運なトウヒの種子の物語である。

星野道夫『旅をする木』旅をする木

#どこでも住めるとしたら のテーマを書く時、この文章を思い出し、「自分も、旅をする木の一本なんだ」と直感した。

理想の場所にたどり着いたと思ったら予期せぬ形で旅立ったり、偶然立ち寄った場所に根付いてしまったり。旅と暮らしは、地続きになっている。

さまざまな旅をしたから、住んでいる街の良さに気づける。住んでいる街の暮らしを大切にしたから、旅先の良さに気づける。どちらが欠けてもいけない。両方の気づきがあるから、今ここでの暮らしの輝きが増す。

住んでいる街での健やかな暮らしが、身体性のある豊かな日々が、色鮮やかな思い出になる。その思い出は、時と場所が離れても自分と街をつないでくれる。そのつながりが、住んでいる街での暮らしを輝かせる。

「いつか、ある人にこんなふうに聞かれたんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持をどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いてみせるか、いややっぱりで言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって… その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

星野道夫『旅をする木』もうひとつの時間

この街の良さ、この街で見た光の柔らかさを伝えられる言葉がまだ見つからないけど、大丈夫だと思えるようになった。

この街での暮らしの中でさまざまな人や風景と出会い、健やかな日々を送ることで、自分が変わってゆけると信じているから。自分が変わってゆくことが、この街の良さを伝えることにつながると知っているから。

その変化を信じられるのは、『旅をする木』との出会いの前後で、オーロラとの出会いの前後で、確かに自分が変わったから。アラスカでもらった種をこの街で育ていきたい。この街での暮らしを通して、変わってゆく自分が楽しみだ。

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ひらやま
最後まで読んでいただきありがとうございます。