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日本留学

今回は日本の大学へ留学を目指したある高校生の話を書きます。

私は教室でテストの採点を終えると、壁に貼ってある小さなイラストに目をやりました。今年高校を卒業するJが書いたものです。それを見ていると、彼女が話してくれた日本のホームステイの話を思い出しました。

Jは去年の夏休み東京に行き3週間のホームステイをしました。彼女はステイ先のホストファミリーが優しかった事、そこには彼女と同じくらいの年の娘がいて、週末になるといろいろな所に連れて行ってもらった事、渋谷で食べたクレープが美味しかった事など、彼女が東京で経験した話を楽しそうに私にしてくれました。 

語学センスが抜群だったJは日本語の成績も優秀で、日本の大学に進学するという目標を立て、毎日日本語の勉強に打ち込んでいました。クラスにはいつも早く来て会話を練習し、時には私に自分で描いたというイラストも見せてくれました。彼女は「卒業したら、日本の大学で好きなだけ自分の好きなイラストを描きたい。」と大きな目を輝かせながら言っていました。自分の夢に向かって一生懸命努力する彼女と話をするのが、その頃の私の秘かな楽しみでした。

そんな彼女の成績が目に見えて落ちて来たのは去年の12月の事でした。しばらくすると、クラスも休みがちになり、授業中も上の空でいつも窓から外ばかりを眺めるようになりました。Jの顔から微笑みが消え、あれほど好きだったイラストも描くのをやめてしまいました。

何を聞いても「何でもないです。大丈夫です。」と言っていた気丈な彼女でしたが、最後の授業の後、その理由を話してくれました。

Jの父親はホテルでマネージャーとして働いていましたが、去年の10月に職を失いました。その後新しい仕事を探していましが、そこにやってきたのがコロナウイルスでした。それはバンコクの多くの産業、特にホテル業界に壊滅的な打撃を与えました。彼女の父親が直ぐに仕事を見つけるのは難しそうです。

彼女は「卒業後は私も働かなくてはいけない。」と言って、「今はもう日本語を勉強している余裕はないの。」と言って静かに微笑みました。

一週間に3回も授業で会っていたのに、彼女の事を全く分かっていなかった鈍感な自分を呪いました。

「Jは去年、どんな気持ちで毎日を過ごしていたのだろう?」

「同級生が大学に合格したニュースをどんな思いで聞いていたのだろう?」

今になれば彼女の気持ちは痛いほど分かります。でも、その時私に出来たのは目の前に座って、静かに微笑んでいる彼女を見つめる事だけでした。

            


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