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家族写真

古い写真を整理しようと引っ張り出した。引っ越しをするたび、つまらない写真は処分してきた。今は小さな段ボールが三つある。データにしてブックにしようかと思っている。色あせた写真はそれそのものに趣があっていいが、劣化していくから物悲しい。
家族で撮った写真が意外と少なくて驚く。誰かが誰かを撮っている為だ。「いい家族」だと思っていたが、その少なさに実はそうでもなかったのかと思ってしまう。

専ら、父の写真が少ない。撮る方に回ることが多かったせいだろう。昔の写真には、その数年後に病に倒れるとは露にも思わない父の姿がある。生死を彷徨った後迎えた、父の還暦の誕生日を病室で祝う家族の写真は、皆可笑しいほどいい笑顔で写っていた。思えばあの時が一番生気に満ちていた。それぞれが苦難に打ち勝とうとパワフルだった。空元気だったかもしれないが、ただただ幸せの中にいる時よりも生き生きとする…というような不思議なことがある。正にそんな写真だ。この時が家族にとってどん底だと思っていた。それを大方乗り切って、後は這い上がるだけだと思っていた。現実には本当のどん底はそこから先にあった。そこから家族で撮った写真がなかった。撮っておけば良かった…。そう思ってすぐにその考えを打ち消した。きっと、みんなロクな顔で写らなかっただろう。
父はあの後積み上げてきた全てを失い、幾度となく入退院を繰り返し、完全に生気を失った。
母はとても美人だ。若い頃の写真はまるでプロマイドか何かのようだ。昔から美人の母が自慢であり羨ましかった。大方、世間を見渡してみても、母親が美人だと娘はそうでもない。また母親がそうでもないのに娘はべっぴんと言うこともある。家の場合は前者である。母のような華やかさは私には無い。おそらく今の私と同じくらいの年の母はとても艶やかだった。
妹は父に似ていると思っていたが、近頃は華やかさも含めて母に似てきたように感じる。とても顔の変わる子だ。小さなころから留学時代、帰って来てから現在に至るまで、刻々と表情が変わる。私が知らない妹の人生が溢れている。
私はと言うと、ちょけているかと思えば、暗黒の時代とも言うべき、卑屈な表情の写真もいくつかある。何か不満を抱いていたのだと思う。実際、父親の愛情を感じられずにいたし、華やかな服を着せられて、かと言って嫌だとは言えず黙ってむくれていた。母の様な華やかさを自分は持ち合わせていないことを自覚していたのだ。

家族とは、気づけばいつのまにか家族であって、知らない間に見えない鎖でつながれたとてもとても厄介なものだと思う。近すぎて正しい距離感がつかみにくい。

最後に手にしたアルバムには、妹が生まれた時のアルバムが出てきた。そこには、出来立てほやほやの「家族」があった。私も妹も、二人の親から確かに愛されていた。それで十分だと思った。
いづれ消えてなくなる家族。写真をブックにまとめる意味が見えなくなった。すべて色あせて消えていくのがいいのかもしれない。どうせ、誰もいなくなる。
最初の「家族写真」をアルバムから抜いて飾った。誰も結末を知らないでいる能天気な家族が写っている。屈託のない笑顔で写っている。
父が亡くって日々が落ち着いた今改めてこの写真を見ると、色々あったけどそれもこれも全て含めてやっぱり「家族」なんだと思った。もうこの日には戻れないし、戻りたいとも思わないけれどこの写真があって良かったと思った。生気を失ってバランスを崩した哀れな家族が、バランスを取り戻してそこにある…そんな妄想を抱いた。本音をいうと、妄想ではなく実際そんな気がしている。

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