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「現実世界と精神世界の「結び目」としての絵(その3)」

「現実世界と精神世界の「結び目」としての絵(その2)」の続編です。

ここで早速だけども、村上春樹インタビュー集(1997−2011)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』から別の表現からも引用してみよう。

ー 『スプトニーくの恋人』では、こちら側の世界と向こう側がいつも意識されていますね。村上さん自身が以前どこかで「物語はこの世のものじゃない」という言い方をされていて、そうしたことどこかで意識しながら書かれたのではないかと思ったんですか。
(中略)
ー 二つの世界が対比的に描かれていることと、「地下の底まで潜って汲んでこないと物語は書けない」ということとは、関連していると思いますか。

村上 天才的な作家っていますよね。何も考えないでどんどん着想が湧いてきて、すらすら書けちゃう人。二十歳ぐらいでデビューする人というのは、たいていそうです。でも、僕はそういうタイプではなくて、自然には湧いてこないから、自分でシャベルを使って井戸を掘りながら書く。(中略)
僕の中にはもう一人の僕がいて、その二者の相関関係の中で物語が進んでいく。さらに言えばその進み方によって両者の位置関係が明らかになる。だから、物語を使って何ができるかについては、僕は非常に意識的に考えています。そのために大事なのは、きちんとそこまで行って物語を組んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないとこは書かない。僕の場合、物語は常に自発的でなくてはならないんです。

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(p.59, 60)


まず、上記から何に着目したいかというと、最後の部分である:
・物語を頭の中で作るようなことはしない
・最初からプロットを組んだりもしないし、描きたくないとこは書かない
・物語は常に自発的でなくてはならない


話が少し逸れるが、現在NHKのオンデマンドで2021年の連続ドラマ小説「カムカム・エブリバディ」の再放送をしている。そこで和菓子屋の娘として生まれてきた主人公安子が、あんこを作る際に小豆に対してこんな台詞を繰り返し呟いている:「おいしゅうなぁれ。おいしゅうなぁれ。」と。
人間が小豆を美味しくするのではなく、小豆の自発性を待っているというふうに感じられる場面。

もう一つ例を挙げると、昨秋大阪で個展をした際に、同じ期間ショップで展示販売をしていた器作家の方と仲良くなった。その方は器を制作する際に、「土に聴くんです、どんな姿・形になりたいか、と。そうすると、土が教えてくれるんです。」と言っていた。

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