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青の系譜

つめたい肌だ。
夜気がひんやりと部屋の中に漂っている。
熱く煮詰まった口を開こう。

私のお母さんは、青い車に乗っていた。
小さな丸っこい青い車だ。
あの青をいまでも憶えている。
かわいいかわいい大好きな車だった。
私たちは二人、いろんなところに行ったと思う。

そろばん教室に行く途中、
自転車の小学生にぶつかった。
その子どもの家にお母さんが菓子折りを持って謝りに行った。

妹がまだお腹に入っているときに、
ふくれたお腹がハンドルにつっかえて、
お母さんはもう車が運転できないねと、
悲しくて寂しくて涙をこらえて言ったこともあった。

この二つの記憶が毎日、頭をよぎる。
母と青い車の記憶は混ざり合う。
母というひとの輪郭が消えて、とうとう青い色しか残らない。

色は、記憶だ。

小さい頃はピンクが好きだった。
お姫さまみたいな毎日を過ごしたいと思っていた。
退屈な日には泣いていた。
お絵かきが好きだった。
クレヨンが好きだった。
いったい何を描きたかったのか。
そんなに描きたいことがあったのか。
不思議だと思う。
いま私はなんの画材も持っていない。

完全に、母の車の影響だと思うけど、
やがて私は青がとても好きになった。

青い鳥、
キキララのかたわれ、
空や海。
雨に濡れたiPhoneは高熱を発し、
画面がモザイクから砂嵐になって、
二度と復活しなかった。
──その画面の、青かったこと。

母の友人が絵画教室を開いた。
「絵の教室」と呼んで、しばらく通った。
コルクの柔らかなボードを切り抜いてフクロウの絵を描いた。
胸毛と翼の色を濃い青にして、スパンコールを貼り付けた。
空の色が上と下で違うと知ったのも、絵の教室でのことだった。
講師の先生が変わってから行くのをやめた。
ソバージュの長い髪をひとつにまとめ、バレッタを付けた女。
私のことをちっとも見ないひと。
指導もされず、放置されるだけ放置され、
喉が渇き、教室が薄暗くなり、
外が真っ暗になったとき、
我慢できずに飛び出した。
それ以来、二度とその教室には戻っていない。

絵を描かなくなって、
目がものすごく悪くなったように思う。

先日、10年来の知人でガラス工芸作家の女性が連絡をくれた。
青をテーマにグループ展をする。
色が決められているのは、なかなかに難しい。
けれど、あなたにも気に入ってもらえるような青いものを作りたい。
彼女は私の青への憧憬を分かってくれる数少ない一人だ。
二つ返事でギャラリーを訪れた。

──青が好きです。
青いものがないと、息ができない。
水分不足で死んでしまいます。

触るだけでくしゅくしゅと音を立てる、
不埒で繊細な薄手の紙を抱えている。
気泡の入った小さな青い瓶だった。

一輪挿しだ。

お祝い事があったときは、これじゃ足りないだろうけど。
私の幸福は静かにしないと味わえないから。
だから一輪挿しがいい。
涙壺にも見える。
幸せを感じたとき、人は泣くこともあるんだろう。

いま私が歩いているのは街のなか。
毛羽立つ石畳の道を進む。

青い世界はいつも見えないところにある。
見たいものが目の前にないとき、ひとは長い瞬きをする。

空の色はチェレステ。
海ならブル。
ラピスラズリの青もある。

爽やかでも優しいわけでもない街を、
ガラスの包みを持って私はゆっくりと歩いた。
明るくて底の知れない青が腕に眠る。

──大事なものは、みんな青かった。
青さを隠しながら生きている。

目を閉じるとにじんでくるのは、母の瞳だ。
いつもちょっとうつむきがちな小粒の目。
瞳には、仄かに青がにじんでいる。

それから私は
まだ顔を突き合わせたことのない
お腹の子の瞳を夢に見る……

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