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ミモザの海、デルフィニウムの翼



1. 失楽園

 あの小さな場所で、僕らは出会った。
 ウッドデッキがきしきしと音を立て、町の周りをかこむ山々から風が吹き下す。
 庭が僕らの、秘密の楽園だった。
 たしかなものなんていらないし、ぬくもりも約束もいらないから。
 だからどうか。
 ねえ。夢で、逢おうよ。


「あの……大丈夫?」
 膝を抱え座り込む君に、僕が訊ねた。それが始まり。
 苦しげにうずくまった同い年くらいの男の子。
 からからと、プレハブ小屋の引き戸が開いた。エプロンをかけた女の人がやって来て、声をかける。
「お待たせ。ブーケ、できたよ」
「あ、ありがとうございます」
 店主の女の人が男の子に花束を渡す。
「具合、どう?」
「……もう少し休んでも?」
「ええ、もちろん。ご家族に連絡する?」
「……お構いなく。お金はここから取ってください」
 男の子が財布を差し出す。お花屋さんが受け取る。
「はい、千五百円ね。ちょうど、いただきました」
 男の子の顔をよくよく観察したお姉さんが話を続けた。
「水くらい出すから、飲んで行って。あとラムネがあるの。食べるといいわ。隣の子もね」
 そう言って一度、お姉さんは店に戻った。
 僕もおやつのおこぼれに預かれるらしい。そんな期待と、男の子への興味が勝って、用もないのにそこに止まった。
「きみ……病気なの?」
「ううん、貧血。少し、くらくらした」
 彼はベンチの背にもたれて目を瞑った。冷や汗が首元を流れていく。冷や汗だと思ったのは、彼が青白い顔色だったから。
「そっか……」
 放っておいてもいいのか、もっと心配した方がいいのか、分からなかった。貧血の人なんて初めて見た。
 でも彼が辛そうなのは分かった。
 具合が悪いときっていうのは、ちょっと寂しいものだと思う。去年、重い風邪を引いたから分かる。だから僕はそばにいた。そばにいなきゃと思った。
 話すこともなくて、男の子が持っている花束をしばらく眺めていた。ふわふわして柔らかそうな花。
「……青い花束だね。あと水色の花も。同じ種類の色違いかな」
 かわいい花だと思った。
 彼が薄眼を開けて、僕を見る。少し回復したのか、静かな声で教えてくれた。
「デルフィニウムだよ。父さんの、好きな花」
「あ、お父さんにあげるんだ?」
 静かに頷いた、寂しそうな顔が心に引っかかった。
 まだ具合が悪いのかな。いや、そうじゃない。そうじゃなくて、なんだか悲しそうな……。
 どうすればこの子の心配を取り払える? 頭をひねって考えた結果、自分の名前を教えることにした。自己紹介だ。
「僕、日暮海。海ってかいて、カイ」
 すると彼はぱちぱちと目を瞬いて、背もたれから背中を離した。
「……僕はそら。風見曽良だよ」
「空! 海と空だ!」
 思わず僕は一方的にはしゃいだけれど、彼は冷静だった。まあ、待ちたまえ、とでもいうような。
「確かに名前はそらだけど、漢字も意味も違うんだ。松尾芭蕉って知ってる?」
 首を振る。誰それ、と思う。
「江戸時代、旅をして詩をつくった文人。その芭蕉って人と一緒に旅をしたのが曽良」
「……ブンジン。歴史に出てくる人なのか。かっこいいな」
「でも、天の空だって、みんな思うみたい。そっちのほうが僕も面倒じゃなかったのに」
 画数が多いんだ、名前を書くのが大変なんだよ、といって、あははと笑った。
 曽良は頭の良さそうな顔をしてる。名前をつけたのはお父さんだと聞かせてくれた。
 花屋のお姉さんが戻って来た。おやつを食べながら僕らは話し続けた。曽良の顔色はだんだんよくなってきた。
「デルフィニウムはね、ドルフィン。つまりイルカね。花の蕾がイルカに似ているのが由来なのよ。でも日本語では、飛燕草。飛ぶツバメって書くの」
 ――イルカとツバメ。海を泳ぐものと、空を飛ぶもの。
「ふうん。どっちも動物の名前なんだね」
「……海と空だ!」
 はっとしたように曽良が声を上げた。
 イルカとツバメ――海と空。
「僕たちの花だ!」
 青い花が僕たちを、繋げてくれた。

 ある日母親に言われた。「あんた、あんなところで遊んでるの?」
 いやなことを言われるに違いないと分かっていた。
「近所の子と遊びなさい」
 母は外から来た人間に冷たかった。
「あの店、女の人が一人でやってるんでしょう。あんな場所に店を開いて。儲かるわけないのにね。なんだか信用できないわ」
 母親はたまに酷く理不尽なことを平気で言う。意地悪で、きゅうくつな、ものの見方をする。
 母はずっと小さな世界を守るように暮らした。不自由な人だったが不幸せではなかったと思う。ただ、僕の幸せを理解できなかったというだけだ。僕は言いつけを守らず、毎日ウッドデッキで彼を待った。

「すっかり仲良しになったね」
 とっておきの秘密基地を教えよう、といって、お花屋さんがお店の裏庭を案内してくれた。
「秘密基地だって」「お姉さん、そんなの作るの?」「お花を咲かせる人だよ。きっと、なんでも作れるよ」
 釘をくわえてウッドデッキを修理したり、電話機を分解したり。僕らからすると彼女は、なんでもできる大人に思えた。
 お姉さんの後をついて、緑の木々の間を縫い、建物の裏手に回った。
「今の時期、たくさん咲くの。持っていかない?」
 ――いちめんの、花。
「ミモザの花束が作れるわよ。二人とも、お家にプレゼントしたら?」
「うわあ……」
「ミモザっていうの? なんか草ボーボー」
 花の名前の女性らしい響きと裏腹に、たくましく茂る枝々に、ぽんぽんと黄色い丸い花がくっついている。ざあざあと風が吹くたび、重々しく揺れた。
「海みたいだね」
「ええ? 黄色い海なんてある?」
「海は光るよ、お日様の光でも、月の光でも」
 陸からでも見えるよ、海はきらきら光るんだ――。曽良はそう言って譲らなかった。
「海は眩しいんだ」
 海がそんなにきれいなら、海の字を持つ僕は? 曽良は僕をどう思ってる?
「……じゃ僕は?」
「……少し、眩しい……かも」
「ええー。かも、なの?」
 あはは、と僕らは笑い合う。それから黄色い花束を抱えて、お花屋さんにバイバイをして帰った。
 あのミモザはどうしただろうか。捨てられてしまったのだったか。……思い出せない。
 夏休みが終わるまで、毎日のように僕らはウッドデッキで話をした。
 風の日はコートを着て。雨の日は傘を差して。暑い日はソーダを片手に。

 夏の終わり。突然曽良は姿を消した。
 ウッドデッキにしゃがんで独り、花を見つめる僕に、お花屋さんが言った。
「――お父様が亡くなったんですって。長いこと入退院を繰り返してたけど一昨日急変したって」
 彼女は鎮痛な面持ちで、あの子は秋になったら親類の働く街へ出ていくのだとも教えてくれた。
 別れは言えなかった。

 僕らは子供だった。どうしようもなかった。
 短い間、毎日のようにここで会い、一日中しゃべっていたのに、僕らの付き合いはなにも残さなかった。
 家も知らない。親同士も知り合いじゃない。学校も違う。
 共有の思い出のはずの花たちは、みな、朽ちて散った。花びらも葉も茎もタネも、なにも残さず。
 ――子供であるとは、そういうことだ。まるではじめからなにも、なかったみたいに。
 冬が来ると、ウッドデッキの花屋は店を閉じた。

 僕らはまだ子供で。二人でいることが正しいと言えるのか自信がなくて。心細くて、でも逢いたくて……。顔を見れるだけで嬉しくて、それだけで心が満たされた。こんな付き合いをしたのは、あとにもさきにも、彼だけだ。

 それから幾度目かの春。僕は就職した。進学は考えなかった。家にはお金がないから。
 今はこの町の郵便局で働いている。
 春の匂いを感じとると、食料品店にあるお花屋さんに寄って、なるべく大きな房のミモザを選んだ。
 本当は友達とか彼女とか、もしくは趣味とか……そういうものがないといけないのかもしれない。そのほうが、他人は喜ぶのだろうけど。
 頑張って浮かせたお金は、どうしても花に使ってしまう。
 持って帰ると、狭い部屋には明るい海原が広がる。
 可憐でいながら野生的。びよんびよんと枝がしなり、黄色い粉を部屋じゅうに振り撒く。
 向かいの窓から、びっくりした顔をした老猫がこちらを見ている。
 僕が笑って手を振ると、猫は口をへの字に結んで、「やれやれ」という顔をしてみせた。


 ねえ君。ここにミモザの海があるよ。
 君は今でも青い花を飾るのかな?
 お花屋さんが教えてくれたデルフィニウムの花の由来。青い花はイルカのかたち。ドルフィンが由来なんだって。そして日本語では飛ぶツバメと書く。
 イルカとツバメ。ぜんぜん違う生き物だね。僕はイルカで君はツバメ。
 ――海と空だよ。
 僕は生まれ故郷の海を離れられないでいるのに、君は何処かへ飛んで行ってしまったまま、戻ってこない。

 なあ君。僕は今日、ミモザを窓辺に飾ったんだ。
 君はデルフィニウムを抱えておいで。
 ――曽良。君はツバメの背に乗って、海と山と幾千の街を超えて……。
 ミモザの海に戻ってきてくれないか。
 どうか、僕のもとへ。お願いだから……もう一度、逢いたい。

2. 帰郷

 伯父の幾度目かの海外赴任が決まった。今度はデンマークだという。
「お前はあそこへ戻るのか。物好きだな。便がわるいだろう、なににつけても」
 荷物をまとめながら、伯父は呆れて肩を竦めたけれど、僕には不便なくらいがちょうどいいんですと答えた。

 街は頭が痛くなる。だいじなものを、ひとから取り上げてしまう。

 彼と逢えなくなって知った胸の痛み。あんなに胸が痛んだのは、どうしてなのか。ずっと答えが出なかった。
 確かなものはなにもなかった。
 住所も知らない、手紙も書けない。約束すらしたことがない。
 かたちあるものは、僕らの間にはなにも、残っていない。

 ――覚えているのはウッドデッキのある花屋と、ミモザの海……。


 調べてみるとそこはもうなくて、けれど店主の女性のことは覚えていた。あの人は昔のように、麻のエプロンを身につけてテレビに出ていた。今や著名な人気フローリストだ。
 コネなんてものはなかったが、ちょうどその頃、異業種対談企画が回ってきて、対談相手に彼女を指名した。出版社は二つ返事でセッティングしてくれた。
 久しぶりに会った彼女は目元を綻ばせて再会を喜んだ。
「作家なんだってね。お父様も喜ばれるでしょう」
 彼女は、僕を覚えていた。
「あの年でわたしも店を閉めたのだけど……」
 彼の消息は分からない。だけどあの町からは出ていないのではないか。結局それしか情報はなかった。
「会えるといいね」
 彼女の変わらぬ優しさに、背中を押された。帰宅すると不動産屋に連絡をとった。

 十年だ。十年――。人によっては笑って済ませてしまえるほどの、大したことない年月。
 子供にとっては……僕にとっては、心細く、長い日々だった。保護者に連れられて、田舎も都会もずいぶん移り住んだ。あの町に似た場所はたくさんあったのに、彼に似た子は一人もいなかった。

「先生。まだ返事してないんですか。気を持たせちゃだめですよ」
「そういうつもりでは、」
「なんで断るんです? 主演女優さんからの申し出でしょ」
 担当編集はわざとらしいため息を吐いた。
「仲良くなるチャンスなのに……」
「僕が仲良くしたい人は、一人だけですから」
「えっ、そんないい人いるなら教えてくださいよー!」
 発言に食いつかれて、少し焦った。彼の存在を話すのは怖かった。だけど人の目を気にして生きるのは、そろそろ終わりにしたかった。
「引越しが終わったら、連絡くださいね」
「はい。本が多いので、しばらくダンボール生活です」
「諦めましょう。それは作家の宿命です」
 それから仕事上の連絡や他愛ないやり取りをして、編集部を後にした。

 あの町を離れたばかりの頃、父の形見の本を何冊か引き取った。
 金目のものは親類が禿鷹のように群がって持っていった。残ったのは本。それも、廉価な文庫や雑誌ばかり。その中の一冊にムンクのポケット画集があった。
 めくると最初に目に飛び込んだのは『月光』――満月が海に光を投げかけて、光の道をつくっている絵。
(ほらね。画家はみんな海を描く。海は憧れ……海は、眩しいんだ。)
 丸い月から細長く海へ延びる光の道。ほんのりとエロティシズムを感じる絵で、糸が切れて頁がばらけるようになってもたびたび見入った。

 中学から高校まで僕は海外の寄宿舎に入れられた。伯父は仕事が忙しく、かといって家に人を置く余裕もなかった。
 園芸クラブの活動は面白かった。バザーで知り合った女の子が僕に告白した。断ると、理由をしつこく訊いてきたので正直に話した。『忘れられない人がいる。大人になったら逢いに行くつもりなんだ』と。
『残念。私のことはラブレターのネタにでもしてよ』
 そう言われて気づいた。彼のことをなにも知らない。家も、家族も。名前しか、知らなかった。
 ただ僕は、彼も同じ気持ちでいるのだと勝手に信じていた。
 寮の窓からは港が見えた。……彼との思い出が支えだった。あるいは、彼の優しさが。
『あの……大丈夫?』
 声をかけられたときから、ずっと。
「海は眩しい。海はきらきら光るんだ」
 海の字を持つ君も輝いていた。隣にいるだけで、心が凪いだ。

 日本に戻ってからは伯父と暮らしていたが、海外に行くタイミングで住まいを分けることにした。
 僕には戻りたい場所があった。逢いたい人がいた。子供だった僕は、大人になった。
 彼に逢いに行く季節がやってきた。海を、探しに……。


 あの町はどの駅からも遠い。
 電車も鉄道も、駅というものが近くにない。バスは廃線すれすれだ。

 不動産屋で借りた鍵で小屋の戸を開けた。当時の記憶よりかなり貧相な建物だった。
 すっかり艶のなくなったウッドデッキは、人手に渡らなかった年月で荒れるだけ荒れていた。ところどころ腐っているのだろう。板を踏み抜きそうで怖かった。
 もとより、店舗にするには需要の少ない場所だった。花屋が商売として成り立ったのは、病院へ見舞いに行く客が僅かながらもいたからだ。父が入院していた病院は、少し離れた市立の総合病院と合併していた。病院跡には新しい商業施設が建っていた。
 花屋が去った後は倉庫として使われていた。今は若手アーティスト向けに貸し出している。掘立て小屋同然だから賃料も安い。借りて手入れをしてくれるなら、なんでもいいらしかった。

 鞄を床に置いて、窓を開ける。埃が舞った。古い硝子は外の景色が歪んで見えた。
 小屋の中から見る僕たちは、どんなふうに見えただろう。
 窓から身を乗り出して裏庭を覗いたが、ミモザはどこにもなかった。

 山から吹き下ろす風は温んでいて、春の終わりを告げていた。
 坂の上からバイクがやってくる。のどかなエンジン音。制服にヘルメット。……郵便屋さんだ。
 小屋の前でバイクが止まる。まだ僕宛の郵便は届かないはずだ。僕はぺこっとお辞儀した。
 けれど郵便屋さんは静止したまま、僕を見つめて動かない。
 不思議に思って僕も見つめ返していると、郵便屋さんがベルトを解いてヘルメットを脱いだ。
 ――あ、と思う。
 彼もまた、――あ、と思っていたのだろう。
「おかえり」
 といって微笑んでいる。僕も笑った。
「ただいま」
 こっちへ歩み寄る彼を、腕を広げて迎えた。


3. はじまり

 ここにもうミモザはない。
 でもツバメは戻ってきた。
 二人は笑って生きていく。

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