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昭和18年の中学生②

      昭和五年生まれの父が同窓生と作った文集より


『S氏 学徒動員』

 大東亜戦争も段々厳しくなるにつれ、我々学生も戦時体制となり軍需工場で働くことになった。一班二班に分かれ一班は与野の計器工場、二班は川口の鉄工所へ勤務することになった。私は二班だった。浦和から電車で川口駅まで行き、そこから整列をし軍歌を歌いながら工場まで30分行軍をした。

 我々の仕事は職人に教わりながら鋳物の型込めの手伝いや、鋳造した物のエアーハンマーでの砂落としなどの雑用が主であった。また機械工場では主に口径20ミリ機関砲の本体を特殊鋼の丸棒から切削、穴開けなどの加工を旋盤を使って行った。最初は見様見真似で行い、うまく削れず熱い切り粉が腕に飛び散るなど危険なこともあった。

 作られた製品はゲージを使って検査をし、通い箱に一定の量を入れてトラックで荒川を渡った赤羽台の陸軍兵器廠へ運んだ。私も何回か荷台に乗って納品に行った。

 激動の日々で心はいつも緊張していて如何にして生き延びるかが最大の目的であった。会社からはヨーグルトのような食べ物が一杯ずつ配給になった。現在ではとても飲める代物では無いが、当時は口に入る物はなんでもよく、少ない弁当を補う物であった。

 いよいよ戦争が激しくなるにつれ、いつも我々を悩ましたのはB29の爆撃機やP51の戦闘機の来襲であった。あるとき警戒警報発令のサイレンが鳴り響き、我々は防空壕に避難した。それから間もなく空襲警報が発令された。恐る恐る防空壕の入り口付近のわずかな隙間から空を見ると白い飛行機雲を引いたB29の編隊が悠然と飛んでいた。間もなく轟々と大きな音がしたと同時に防空壕の入り口付近が土煙とともに潰された。爆弾が落ちたのだ。この瞬間全く生きた心地は無くただ身をすくめてひたすら懸命に身の安全を神に祈るのみであった。やがて警報が解除されて外に出ると、少し離れた河原に大きな穴が開いていた。防空壕が河原より一段高くなっていてその下に小さな川があって地盤が軟らかかったために爆弾の力が弱まったのではないかと思うとぞっとする思いだ。

 またある時は帰宅途中に空襲警報が発令された。我々は線路から離れて一目散に逃げたがP51の艦載機が数機頭上をかすめるように飛んできて、機銃照射受けた。幸い誰も被害を受けなかったがこの時も身の毛がよだつ思いであった。

 以上、学徒動員時代の思い出の一端を記憶をたどりながら書いたが、如何せん時間が経っているために多々思い違いがあると思うが、ご容赦願いたい。


 今回は命の危険を感じさせる内容でした。また他の方の物も発表したいと思います。

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