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近況(20190613)

ついに語学学校が最終日になった。最終日はみんなで近所のレストランに行って、しゃべったりしようと前からみんなで話していた。

西洋式のメニューに慣れていないのが不安で、何を頼んで良いのかわからない人もいる。だけどちゃんとお店の人に「分からないんで飲み物をなにか私に勧めてくれませんか?」とドイツ語で言っているのを聞いて、ああ、ほんと、毎日いろんな感覚や物事をみんなから教わったな…と思っていた。みんな、ガケから落ちないような気持ちも持ちながら毎日生きてた。

紙をもらった

紙は「合計760時間やりとげました」という証明するもので、たぶん滞在許可をもらう時、生活能力の証明のために見せたりするんだと思う。

終わって、すごい充足感がある。「資本主義経済の中で客観的にすごい/すごくない」って、本当にほとんど関係ないなってつくづく思う。

学校の良さがやばかった

運でしかないかもしれない。だけど、学校教材の扱うテーマ自体が、かなり序盤から良くて、色んな背景を持った人たちと話す価値がすごくあった。

たとえば「貧乏は決して恥ではない」とか。改めてこう教科書に書かれていて、正面からそれを受ける。で、みんなでそれについて話す。「支援を積極的に受けること自体が勤勉さである」とか「保護された経験を連鎖させることが貧困の"質"や経路を改善することになる」とか、それを流暢に話すことは全然できないが、試みるだけでも良い感じだった。

「人間はどのぐらいの動物園をどう運営すべきか・動物愛護に反しないオリやエサ、生体の展示はありうるのか」などは、普通に考えても難しさの多い領域なので、かなりめちゃくちゃな文法でしゃべってしまった。9ヶ月間、しょっちゅう、その日学校で話した内容を布団の中で考えたりしてた。幸せと言うしかない。

さらに

かなり多くの文化圏で、「どんな相手の、どんな状況にも、まずシンパシーや理解を示せ」とか「他人には与えるだけ与えろ、そして、さらに与えろ」みたいなことがすごく立派だとされているのが、改めて自分にとって刺激的だった。

安い給料でボロボロになった仕事の後に学校に来てる人が、ピノみたいな「1個がでかい」アイスを、平気でくれる。他の人にもあげる。そんな小さなできごとでも、僕はいろいろ考えてしまった。

誰もが実行できることではなく、難しいことだからこそ、彼ら彼女らも立派に思っている。「本当はこうありたい」「こういう時にこうできたら素敵だ」というのを、宗教とか伝統の関係があってもなくても、僕はあまり持ててなかったと、頻繁に思った。

いや、正確に言う。むしろ僕はどちらかというと、「こうありたい」とか「こうすべき」というフォームをたくさん持っているほうだった。だけど、ほとんどが「無理なく実現可能なもの」ばかりなのだ。社会に生きる人間としての態度で、「たどり着けない、すごい理想」とか、「できない状態が続くことを恐れずに持つ理想」をほとんど持てていないことに気付いた。

でもこれはまだ何か考えながら自分に適用していったりすると思う。でもみんな見れたほうが良いと思ったから、今、メモ程度に書いておいた。

とにかく

noteで「おやつ獲得ノート」(最初の頃にやってたnoteの名前)に付き合ってくれた人とか、最近でもサポートしてくれた人とかも、ありがとうございました。遊びのつもりが、かなりのおやつをいただいてしまった。

そして、何か刺激や小さな参考とかインプットにしてもらえるって、反応としてとてもうれしい。僕はまた、自分が面白いと思う形で作ったり書いたりしていくので、味わえる人はぜひ自分の楽しみ方に自信を持って楽しんで下さい。

卒業!