「読ませる」文章をつくる、たった一つの法則

文章は、人に読んでもらえなければ意味がない。

それはなぜか……。

たいていの場合、文章は何らかの目的をもって書かれている。とくに、プロの作家やライターが人からお金をもらって書く文章には、それこそはっきりとした目的がある。
たとえばそれが、企業のウェブサイトやパンフレットに載せる記事であれば、「会社のことを知ってほしい」「ファンになってほしい」「商品を買うきっかけにしてほしい」などのような目的があるわけだ。

読まれない文章が、その目的を達することはできるだろうか……?
まず不可能だろう。文章に求められる目的を果たすには、「読ませる」文章をつくる必要があるということだ。

では、どうすれば「読ませる」文章をつくることができるのか。
それにはひとつの絶対的な法則がある。
それは……

つかんで、引っ張って、落とす。

これに尽きる。

え? たったこれだけ?
そう、「たったこれだけ」である。

これさえできれば、それは必ず「読ませる」文章になる。
そう、「必ず」だ。

つかんで、

「つかむ」とは、読み手を文章の世界に誘い込むことだ。読み始めてもらわなければ、文章を最後まで読ませることなど到底できない。
この「つかみ」を担うのが、タイトルとリード、本文の書き出し部分である(リードとは、タイトルと本文のあいだに置かれる短い文のことだ)。

読むのは非常に負荷のかかる行為だ。時間もかかる。そんなたいへんなことを読み手に強いようとしているわけだから、「読んでみよう」と思わせるには、それ相応の「何か」がなければならない。
「自分と関係がありそう」「おもしろそう」「役に立ちそう」……。読み手の興味を引いて、読み始めてもらうための何らかの仕掛け、フックが必要だ。それが「つかみ」である。

編集の世界にはこんな話がある。「おもしろくつくるのは当たり前。『おもしろそう』につくらなければならない」
ご飯屋がうまい飯をつくるのは当たり前で、「うまそう」に見せなければ選んでもらえないのと同じことだ。

重要なのは、「意外性」

では、どうすると「おもしろそう」になるのか。
それが分かれば書き手は誰も苦労しないのだが、一つ要素を挙げるとすれば「意外性」だ。「逆説」と言ってもいい。誰もが当たり前だと思っていることをタイトルにしても、誰もわざわざそれを気に留めることはない。

信号は、青になってから渡りましょう

こんなタイトルでは、当たり前すぎて誰もその先を読むわけがない。

信号は、青になっても渡ってはいけない

にするとどうだろうか?
「え?」となって、その真意を知りたくなるはずだ。このタイトルはただの例だが、「青信号でも事故は起きる。信号を過信せずに、左右をよく見てから渡りましょう」という本文なら、交通安全を呼びかける文章として、一定割合の人に「読ませる」ことに成功するだろう。

「意外性」や「逆説」は、人に驚きをもたらす。驚くと、人はなぜ自分が驚いたのか、その理由を知りたくなるものらしい。意外性が「つかみ」になりやすいのはそういうことだ。

だが、奇をてらうだけの「つかみ」は絶対に避けるべきだ。インパクトはあっても、本文がタイトルとつながっていなければ(あるいは関係が薄ければ)、読み手には悪い印象だけが残る。
文章は、読んでもらわなければ始まらないのは事実だ。けれども、それによって悪い印象しか残せないのであれば、その文章はネガティブキャンペーン以外の何物でもない。表現の工夫は必要だが、本文の趣旨から外れたタイトルはご法度である。

引っ張って、

「つかみ」の後に待っているのは、読み手をいかにして最後まで「引っ張る」かというハードルだ。文章を読み始めてもらうのに成功したとしても、途中で脱落されてしまったら、やはり文章の目的を果たすのは難しい。

では、なぜ読み手は脱落してしまうのか……?
それは、自分が読み手であるときのことを思い出してみればすぐ分かる。ネットでふと目にした「おもしろそう」なタイトルの記事を、読み始めたらなんだかよく分からなくて途中でやめてしまった経験は誰しもあるだろう。
「つまらない」「分からない」「読みづらい」……。それらは、一度は読む気になった読み手の心を折るのに十分な理由だ。

読み手の脱落を防ぐには、「分かりやすさ」と「読みやすさ」をまず徹底して追求しなければならない。

「分かりやすさ」とは何か

話の筋がちゃんと通って流れていること。論理の飛躍や矛盾があれば、読み手はたちまち混乱に陥ってしまう。
ありがちなのは、「書き手にとって自明なこと」を、書き手が無意識に省略してしまうことだ。自分本位で書いてはいけない。読み手の視点で、話の筋が流れていることを確認する。読み手のリテラシーを想像し、読み手にとって「分かりやすい」流れをつくる。

どこまで噛み砕くかは、読み手が誰かで大きく変わる。広い層に読んでもらいたいのなら、丁寧な説明を心がけるべきだし、特定の属性を持つ人たちに狙いを絞って読んでもらいたいなら、丁寧な説明はかえってくどいと思われかねない。
たとえば、BtoCで多くの人に届けたいなら、多くの人が知っている言葉を使うべきだ。専門用語を使う必要があるなら、それをきちんと説明する。反対に、BtoBで特定の業種・業界に向けて届けたいなら、専門用語をそのまま使った方が話はスムーズになる。
「読み手が誰か」は、文体をも決めるのである。だから、読み手を意識することは文章の肝のひとつなのだ(前回記事参照)。

「読みやすさ」とは何か

「読みやすさ」はもう少しテクニカルな話だ。音のリズムや視覚のリズム、一文の長さなど。読んでいて心地よく流れるかどうかの問題だ。

人が文章を読むとき、文字を視覚で処理しているようでいて、脳内では音に変換されているらしい。ポスターの標語がたいてい五・七・五になっているのも、それが日本人にとって心地のよいリズムとして刷り込まれているからだ。

とはいえやはり、視覚情報も読みやすさに関わっている。ページに文字が隙間なくぎっしり詰まっていたら、多くの人は読む気が失せるだろう。適度な改行は、ページに余白をつくり出してくれる。
漢字だらけの文章も、やはり多くの人を辟易させる。かといって、ひらがなだらけでは見た目で文意を取りづらい。音と見た目のリズムの両方が、読みやすさを大きく左右する。

一文の長さについて言えば、長くなればなるほど、一般的には読みづらくなる。どこが主語でどこが述語かが分かりにくくなるし、長い文章には往々にして、論理や文法の破綻が紛れ込みやすい。英語の関係代名詞のような表現や、接続詞は極力避けて、一文をコンパクトにする。それだけで、文章はとてもスッキリする。

ここまでは、いかに「引っ張る」かというよりも、いかに「脱落させない」かの話だ。いわば「守り」の話である。この先に、「攻め」の話があるのだが、ここまででずいぶん長くなってしまったので、それについては回をあらためて……。

落とす。

「落とす」は要するにオチである。

どうすればきちんとオチるのか――。
それをひとことで言うのは難しいが、王道は、「サンドイッチ」もしくは「おまんじゅう」方式だろう。

文章の冒頭で提示した主題を、もう一度繰り返す。冒頭で問いを投げかけたなら、その問いをもう一度繰り返し、答えをコンパクトにまとめる。あるいは、冒頭に結論を持ってきたなら、それをリピートして読み手に再度印象づける。冒頭と末尾をパンで包むから「サンドイッチ」「おまんじゅう」というわけだ。

手法としては単純だが、十分に効果がある。とくに、少し文章が長くなると、「ここまで何の話をしてたんだっけ?」と、読み手がそもそもの話を忘れてしまうことがある。そんな読み手の頭を整理して、伝えたいことを強く印象づける。読み手に納得感を抱かせることができれば、文章としてはひとまず成功だろう。

タネ明かし、もしくはまとめ

この、「つかんで、引っ張って、落とす。」の法則は、文章の構成法でいう三部構成に当たる。「導入・展開・結論」、「序論・本論・結論」と紹介されているのと構造は同じなのだが、力点が違う。
「導入」や「序論」では「つかみ」の重要性がまるで伝わらないし、「展開」や「本論」では、読み手をいかに脱落させないかという緊迫感がまるで見えない。
文章は、読み始めてもらってなんぼだし、それを最後まで引っ張って落としてこそ、目的を果たすことができる。それを忘れないための「つかんで、引っ張って、落とす。」である。

なお、文章の構成法というと、「起承転結」があまりにも有名だが、これははっきり言って忘れた方がいい。恥を忍んで正直に告白すると、私自身が長いこと文章に向き合ってきたけれど、「承」と「転」の違いがいまだによく分からない。これにとらわれてしまうと、とても文章なぞ書けない(と私は思う)。
文章には必ず出だしがあり、そこから話が展開して終わりを迎える。出だしから最後まで文章とストーリーが流れて、全体を通じて「読み手への意識」が十分にあれば、文章は自然とよくなっていくはずだ。

大事なのは、まず「つかみ」。これがなければ誰も文章を読み始めようとしない。そこがうまくいったら、次は「引っ張る」意識。どうしたら読み手を脱落させずに「引っ張れる」かは、読み手の気持ちになれば見えてくる。読み手を意識せずに、読み手の関心をつなぎとめることなどできやしない。
導入部で読み手を「つかんで」文章の世界に誘い、展開部で読み手を脱落させずに「引っ張って」、最後の展開部できちんと「落とす」。つまり、文章はどこまで行っても「読み手」ありきである。それを強く意識すれば、「読ませる」文章をつくれるようになるはずだ。

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