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好きなことで生きていく為に

私は小さいころから、お小遣いをもらえばその月に全部使い、お年玉をもらったらすぐおもちゃ屋さんに行くような子供だった。一方姉は、貯金が趣味みたいな人で買い物もあまりしない倹約家だった。

高校を卒業してからも、YouTubeの広告さながら「好きなことで生きていく」と思っていた私は、ある程度技術を習得したと思い服飾の専門学校を辞め、当時やっていたバンドの衣装製作に舵を切った。とはいえ心配性でもあるので暫くはバレエ衣装の工房でバイトをし、そこでもありとあらゆる技術を盗んだ。
バンドの衣装製作も波に乗り、なぜかヘアメイクの依頼もたくさん来るようになったころ、バレエの衣装工房の先生(社長)に「二足の草鞋を履いていてはいつまでも本物になれない、バレエの衣装で本物になりたいならちゃんと考えろ」的なことを言われた。


私はその数日後、「バレエの衣装は辞めます」と告げた。


それから衣装の仕事は瞬く間に忙しくなり外注さんに手伝ってもらうこともあった。徹夜の日も多かったが、自分が作った衣装がCDのジャケットになったり、コスプレしてくれる人が現れたり、嬉しいことの連続だった。


だが、その時は突然来た。朝起きたらテレビの声が二重に聞こえる。
船に乗っているようなめまい。絶対的に何かがおかしいと思った私はすぐに病院へ行った。病院に行っても薬を飲んでも症状が収まる気配もなく、ベッドから起き上がることすら辛く、地獄のような毎日が始まった。
一番つらかったのはこの病気は見た目ではわからないということだ。一緒に暮らしていた姉はずっとごろごろしてるなあいつ、くらいにしか思っていなかっただろうと思う。
はっきりとした病名を言われたわけでもなく、いくつかの病院をはしごしたが、おそらく低音型突発性難聴・メニエール病の類だろうとなった。

もちろん起き上がって仕事をしようにも体がしんどくて動けない、衣装を作るのは無理だと思った。横になっていてもやってくるめまいの中、元気に動けるようになったらロープを買いに行って首をつって死のうと、毎日頭の中ではずれないロープの結び方をシミュレーションしていた。

そこから数か月がたち、気付いた。働いていないからお金がない。

お金に厳しい姉に家賃の支払いができないなど、とても言い出せず、もちろん大した貯金もないものだから、今まで大切にしてきた高かった靴や服、アクセサリーなどをあわてて売って、お金をかき集めた。
仕事をしようにも色々なスケジュールとの兼ね合いで絶対締め切りを落とせない衣装製作を受けることも体調のことを考えると出来ず、単発短期間のバイトでその場をつないで、なんとか持ちこたえていた。

私にとってはこの病気になったことは、人生においてとてつもなく大きな出来事になった。病気は必ず再発する、と医者に言われたし、今後のことを改めて考えた。

死んだら私って何も残らないなーと思った。

それまで趣味でやっていた音楽も、耳が聞こえなくなるかもしれないと思ったら、初めて自分にとって「絶対に続けていたい事」なんだと気づけた。
だからこそ、もっと歌を歌うことを後悔のないようにやりたいと思ったし、私という形を残したいと思った。

少しだけ遅かった私の音楽のスタート。

今は色々な人が力を貸してくれ、応援してくれて、運よく体調も崩さずに続けられていることは本当に奇跡のようなことで、ありがたいなあと思う。
これは本当に当たり前ではない。マイナスを出さないように工夫し、貯金もできるようになった。私が衣装やヘアメイクをやっていた時からずっと「歌ちゃんとやんなよ、オーディション受けなよ」と言ってくれていた友人も最近「スタッフしてた時より今のほうが100%良いし、音楽やってくれてることがマジで嬉しい」と言ってくれた。

きっと私は病気にならなければ音楽をこんな風にやっていなかったかもしれないし、貯金も大してせず、今のこの状況で「やばい!!!!」となっていたかもしれない。


人間本当にいつ何があるかわからない。それはいつも肝に銘じて、これからもつつましく生きていきたいと思う。



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