密着:『牛乳を注ぐ女』

『牛乳を注ぐ女』の朝は早い。
まずは、例の衣装に着替える。
黄色の上着に、自慢の青スカート。
ポイントは、適度なシワが入る程度の着古し。
衣装は1週間分、全部で7着の用意がある。
出勤は週6日だが、牛乳をこぼすこともあるため、予備は欠かせない。
最後に、冷蔵庫から牛乳を取り出し、準備は完了。
近年はコスト削減のため、低脂肪乳を用いている。
開館5分前のアラーム。
袖を肘上まで捲り、深い息を吐く。
今月はホーム、アムステルダムでの仕事。

さて、ここからは皆さんご存じ、『牛乳を注ぐ女』の登場。
ただし、今回は、その裏側に迫っていきたい。

仕事が終わり、『牛乳を注ぐ女』が向かったのは、近所のスーパーマーケット。
彼女が牛乳と夕飯のカップ麺とともにカゴに入れたのは、キリンのラガービール。半ダース。一晩で3,4本は空にする、とのこと。
帰り道。彼女のAirPodsはHIP HOP。
夕焼けを背にパンチライン。
「俺はレンブラントとは違う、フェルメールだクソ野郎。たかだか、絵画。ガタガタ、抜かすな」

晩酌のお供は、海外ドラマ。
長年かけて色々と観てきたけれど、『フレンズ』を超える傑作には出会えていない。
女性陣だったらブラピの奥さんより、モニカ。
でも男性陣は絶対に、ジョーイ。ここは譲れない。
そうして夜は更け、いつの間にか寝落ち、気づけば、朝。その繰り返し。
ちなみに寝ている時は、昼間とは逆向きに架空の牛乳を注ぐ。寝相という名の、自然なストレッチ。

多忙な日々を送る彼女。
そもそも、彼女はいかにして有名になったのか?
ここからは、我々が行った彼女へのインタビューをお聞き願いたい。

Q.いつ頃から今のような生活になったのですか?
A.
そもそも、私がこうも忙しくなったのは、ここ20年か30年ぐらいのことです。
特に忙しいのは、日本での仕事ですね。
なぜだかはよく分かりませんが、ヨーロッパではほとんど人気のない私が、日本では大人気なんです。
最近、ヨーロッパでも注目を浴びたのは、同僚の『手紙を読む女』の件ですね。
それこそ私たちはずっと知っていたんですけど、修復して天使を出すことにしたらしく、私の方はどうするか、みたいな話です。壁に掛かっていた世界地図がどうこう、とか、まあ色々言われてますけどね。

Q.個人的にはどうお考えですか?
A.
私ですか? 私はまあ、変な注目を浴びて忙しくなるよりは、今のままで結構です。
ギャラ、あ、入場料のことです、ギャラが増えるのは嬉しいですけど、まあ使いどころもないし、今のままで十分ですし。

Q.仕事をしてて、一番つらいことは?
A.
開館からの、最初の30分ですかね。姿勢を維持するのが辛いんで。
でも、そこを過ぎればあとはもう、身体が慣れてくるんで。

Q.仕事中は、何を考えているんですか?
A.
最近はずっと、海外ドラマを見てます。
パンで隠して見えないようにしているんですけど、実はあそこにタブレット置いてて。
右耳はAirPods付けてても見えないんで、そんな感じでずっと見てますね。
一応、牛乳をこぼした時のために、タブレットは防水のやつ使ってます。

Q.充電が切れることは?
A.
タブレットはずっとコンセント繋いでいるので大丈夫なんですけど、AirPodsは切れますよ、もちろん。だから2台持ちで、それを交代で使うようにしてます。
ヨーロッパだったら人がいない時間が多いので、まあ隙を見計らって変えているんですけど、日本だとそうはいかないですね。日本の時は、まあ、繁忙期だと割り切って諦めてます。

これからも応援してます、頑張ってください、と取材班の男が言って、私への密着取材は終わった。
大した話は何もしていないが、あれで番組が成立するのだろうか?
まあ、「有名絵画の裏側シリーズ」は人気があるらしいので、これでもいいのだろう。
それはともかく、ここ数日は、よく冷える。
3月に入り、少しずつ春を思わせる日も増えてきたけれど、その揺り戻しのようにやってくる寒さが余計に応えた。
こうして身体が寒さを感じると、私はあの冬の朝を思い出す。


あの冬の朝、というのは、ご主人が私を描いてくださった日です。
箱のようなもの、それはカメラ・オブスクラと言うらしいのですが、それを覗き込みながら、ご主人は言いました。
「こうして寒い日の朝、古くなったパンをどうにかしようとお前が牛乳を注ぐ姿が、私には愛おしくてたまらない」
私はその言葉に微笑み、こう尋ねました。
「では、私の絵に、キューピットを描いてくださりますか?」
ご主人は覗き込んでいる箱から顔を上げ、私を見ました。そしてまた箱に目を戻すと、「もちろんだ」と言いました。
私がまた笑みをこぼすと、ご主人から「いつもの表情で」と注意を受けます。
ご主人は、今となってはフェルメールの名で画家として知られていますが、私にとってはいつまでも、ご主人のままです。
めったに外に出ることなく、ずっと家に引きこもってばかりだったご主人は、またいつもの言葉を口にします。
「もっと、もっと無意味になりたいんだ。神を讃えるでもなく、ドラマチックな一幕でもない。もっと無意味なものを描いて、私自身が無意味になってしまいたいんだ」
私には、ご主人が何を言っているのか、さっぱり分かりません。私もまた、いつもの言葉を返します。
「私は、ご主人の描く絵が、好きです。だから、無意味になんてならないでください」
私がそう言うと、ご主人は手を止めました。
ご主人はしばらくそのまま何かを考えている様子で、やがてご自分の部屋に戻り、何かを手にして台所へ戻ってきました。
そしてご主人は、手にしていたものをパレットに広げます。
それは以前、ご主人が「金より高いんだぞ」と自慢げに話していた、青の顔料でした。
たかが女中を描くためにそんなものを使うなんて、と驚く私に、ご主人が言いました。
「キューピットは描かない」と。そしてまた箱を覗き込み、
「窓から零れた光。それに現れるお前が、私にとっては天使そのものだ」

こうしてあの冬の朝を思い出すたび、私は頬を緩めます。
インタビューでは答えませんでしたが、仕事で一番辛いのは、あの表情を保つことです。
タブレットの中の海外ドラマが、そしてあの冬の朝が、私の表情を崩そうと必死になっているからです。
でもそんな時、私の耳には、「いつもの表情で」と私を注意をするご主人の声が聞こえてきます。



3月11日 午前3時32分 宇喜多新介
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読んでいただき、ありがとうございました。
ある夜、ふと『牛乳を注がない女』というタイトルを思いつき、最初はコント風にしようと思ってメモを取っていたんですが、下調べをしているうちに、こんな形になりました。
参考にしたのは、美術解説でおなじみの『山田五郎 オトナの教養講座』というYouTubeチャンネル、そして学芸員資格をもつVTuber『儒烏風亭らでん』ちゃんの解説です。これらを基にして、私なりの想像を加えて書きました。
ちなみに『牛乳を注ぐ女』が放ったパンチラインは、舐達磨『LIFE STASH』の替え歌です。絵画と大麻で韻を踏めます。
そしてまあ、毎度のことですが、ラジオ聞いていってください。

最後に1曲紹介して終わります。
Heaven's Kitchen / BONNIE PINK

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