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受け手の感情を制限しない

人間には感情がある。そしてそれは、人間の根幹をなし、とても大切なものだ。
だが、それを扱い、自分の利のためにコントロールしようとすることに私たちは慎重になった方がいい。特にそれが、何らかのコンテンツを通した時にはなおさらである。


感情は、その人自身が直接経験した出来事に対してわき起こるものだ。喜び、怒り、悲しみ、嫉妬、慈しみ……など、それは非常に多彩なものである。

そして、この感情がわき起こるのには、なにも直接経験は必要ではない。

小説を読んで感動したとか、映画を見て泣いたとか、とあるキャラクターの身勝手さに怒りがわいたとか、私たちは創作物の向こう側にある出来事を我がこととして受け取り、心を動かしている。

この「感情移入」という現象は、人間だからこそ持っている共感性によって引き起こされている。
自分のことでないのに、そうであるかのように感じ取り、同じ感情を抱く。このことが、人間の想像力と創造力を発達させてきた。

即ちこの現象は、私たちの人間らしさのためにあるものなのだ。これは、誰かにコントロールされていいものではない。
しかし、コンテンツ――とくに、それがある物語性を持つときには、どうしてもそれを目指してしまいたくなる。
これは、物語性というものが、人間の感情のコントロールを容易にするからである。そしてそもそも、受け手を「感動させる」ことが、物語における目的となることもある。
そういった理由から、物語にかかわる人間は、受け手の感情をコントロールしようとしてきた。これは当初は隠されてきた意図だったが、次第に、そのことが当たり前になってきて、表に出すようになってしまった。

意図を透けさせることほど無粋なこともないが、それ以前に、感情とはその人自身だけのものである。それをコントロールしようとしていることなど、露骨にしていいものではない。
そうした途端、コンテンツを提供する側は、受け手の味方ではなく敵になってしまう。

物語性によって受け手が感動するのは、単なる結果論である。確かに意図はあるものの、それは完全ではないし、物語体験は個々人によって異なり、コントロールしきれないものだ。
それにもかかわらず、感動することを喧伝し、そうさせることを特別で良いことかのように「物語側から」言い出すのは不必要なことである。
そのこと自体が、感情移入を妨げることもあり、全く利にならない。

受け手の感情を操り、制限しているのだと思わないこと。
そしてそれは意図ではなく、結果としてそうなっているのだということ。
なにより、物語性のためには物語そのものに真摯に向き合うこと。

コンテンツーー特に物語性を持つものは、そのような心構えが大切である。


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