「わかったふり」で固められた世界。
毎日、色々なことが起こる。
いろいろなことが起こっては、それは次の日には変化して別のものになったり、突然消滅してなんでもなくなったり、かと思えば、急に復活して私達の生活に影響を与えはじめたりする。
色々なことは、本当に厄介だ。私たちの平穏無事な生活を脅かす。静かに暮らそうとしても、そう簡単ではない。何にも影響されずに、我が道を貫くこともとても大変だ。色々なことが複雑で、絡み合って、影響しあい、1度として同じ瞬間がない。そして私たちの感じる「時間」は、昔から今、今から未来と進むにつれて、どんどん加速しているようにも感じる。
だから私たちは、そういった変化し続ける世の中のことを知らなければ、と思う。知らないままではいられない。かつてのように、誰にも自分の何も触れさせないようにする生活は、もうほとんど送れないからだ。私たちは変化の中に生きていて、絶えず動き続けるその風のような概念にはためかせられながら、自分自身の形さえ変えながら、生きている。
知らなければと思うのは、そうしなければならないと思わされているからだ。けれど、それを拒否することはできないし、拒否してしまったら、あなたの死は目前だ。存在をアップデートできなければ、変わり続ける時代から取り残されてしまうから。
とはいえ、それを恐れすぎて、私たちはある過ちを犯してしまっていることもまた、事実である。目まぐるしく変わることに形だけでもついていくには、「わかったふり」が最適だ。何故なら、本当にわかるのには労力も時間もかかるし、わかったところでそれもまたいつ変化するかわからないのである。というより、変化し続けているものを本当にわかることなどできない。だから、その努力をするふりをして、手っ取り早くわかったように装うことを、私たちはいつの間にか、当たり前のものとしてしまった。
けれど、わかったふりは、あなたの存在を貶めることになる。それどころか、あなたの周りにあるものすべてと、あなたとの関係を歪めてしまう。世界が正しく認識できなくなるのだ。
しかし、私たちはわかったふりをやめることができない。そうしなければ変化する世界においていかれると思ってしまっているからだ。
色々なことが起こる昨今では、わかったふりは必需品だ。それをやめられる日は、来るのだろうか。
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