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「面白い」と思う前に、私達は既にそれを分かっている

 何かを「面白い」と思うことの第一は、その何かに興味関心を抱くことだと言われる。興味関心。詳しく知ろうとするとか、関わろうとする意思だ。
 なるほど、私達が物事に関心を抱かなければ、面白いに限らず、そこに感情は起こりようがない。関心が無ければ面白くないということは当然のように思える。だから、私達はいつも、何か分からないものを面白いとは思わないはずなのだ、と。

けれども、それは少し違う。分からなければ面白くなるようがない、つまり分かることが面白さを呼ぶのではない。
 確かに「分かる」ことは、面白さを、というより私達の感情を引き起こすトリガーではある。でもそのトリガーは、感情を0から1にするものではない。実際、「分かった」途端にそれが面白くなることなど、どれくらいあるだろうか? 分かることとは、興味関心を抱くということは、単に、私達が既に面白いと思っていたものの面白さを、さらに増幅させるものに過ぎないのだ。

 なぜなら、分からなくともなんだかワクワクするとか、興味を引かれるとか、楽しんでみたいという動機が、私達の中にはあるからである。分からないという状態は、いうほど、私達を面白さから遠ざけてはいない。私達が面白くないと思うのは、分からないことが主な理由ではなく、自分自身の感覚に気づかないことが大きな理由なのである。
 つまり、頭では分からないと思っていても、分かってしまっている時がある。そして頭では面白くないと思っていても、実はそう感じていない時がある。そういった「気づかれていない感覚」を常に持ちながら私達は生きており、それは、はっきりとした「分かる」「分からない」のような動機とはまた違うものなのである。
 即ち、私達は頭で面白いかどうかを判断する前に、それをもう決めてしまっている節がある。その上で、頭で分かったり、理解したりすることによって、その見出していた面白さをより強く感じるようになる、という仕組みなのだ。
 この「気づかれていない感覚」とは別に、直感(直観)というものではない。単にそれは、自分自身でははっきり認識できない感覚のことである。その感覚は、一般的な意味での興味関心とか、詳しく知りたいというような感情のことではない。私達が自分自身で、「そういうふうに思った」と理解する前に、既にわき起こっているものだ。
 私達は自分で思うほどは、明確に自分自身のことについて気づいていない。その気づいていない領域の中に、何かを面白いと思ったり、そうではないと思ったりするためのトリガーがある。
 だから私達は、自分で気づく前にもう、物事について分かろうとしていたり、拒否しようとしていたりすることがあるのである。

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