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可愛くないキャラはいない③ 主文:女性的という言葉の呪縛 前編

※序文
●可愛くないキャラはいない① 序文:「女体化→女性的→カワイイ」
 https://note.com/kawausowright/n/n7285428988e6

※このnoteは前後編に分かれており、
後編は記事末尾のリンクからお読みいただけます。

1.性別と、その性別へのイメージ

キャラとは可愛いものだ。そうでなければキャラではない。
そして可愛いとは、「女性性を持つ」という意味である。それは「男性性」とはまた別のものだ。

この考え方は、現代の社会では全く差別的であり、偏見に満ちている。
たとえこの言葉が、表現上の意味しか持たないにしても――女性名詞、男性名詞などというようなもの――、なんにせよ、私たち人間の性別というものを、固定するような表現方法であることは事実だ。

女性が「女性的」であるのは、現実の女性たちの身体的な性別とは全くかかわりがない。不思議な話ではあるが、これは男性にもあてはまる。

私たちはいつも、様々なものを分類して、その中から取捨選択を行うことで人生を歩んでいる。より良い生のためには、この選択が大切で、選択を行うのに便利な分類は、常に頭の中に鎮座しているフィルターだ。
そのフィルターの中でも、生物的な根幹である「性別」――即ち、後世に自身の遺伝子を残す上で最も気にしなければならない「男女」というものは、もはやあらゆる面で無視ができないものである。

人間は遺伝子の乗り物だと誰かが言ったが、その乗り物には、男と女の2種類しか存在しないのである。
だから私たちは、無意識のうちに、物事を男女で考えがちだ。そのようにして、歴史を歩んできた。
それは肉体的な形状の違いから出発した分類だった。

けれど昨今では、肉体と精神は別個のものだとより強く考えられるようになり、誰もがそれを受け入れた。
だから、この男女の2項対立に疑問が生じた。

その疑問により、特に、この肉体的な性別イメージの呪縛に苛まれていた「女性」というものが少しずつ解きほぐされていった。
女性は家を守る者ではなくなり、自立して生きることが当たり前となり、社会的に男女の分類は取り払われつつある。

2.バイアスを許さないという制限の限界

けれども、イメージは別だ。
人間はまだまだ、性別へのイメージというものを払拭できる段階にない。
それどころか、私たちは肉体よりも精神を優先したのだ。だから、その精神から来る「イメージ」というものを、そう簡単に撤回はできない。

私たちは外見で他人を差別してはならないが、それはつまり、内心に踏み込むことを禁止されているということだ。
外見だけで判断するなとはそういうことだが、つまり、内心のイメージに手を出すことはタブーなのである。

だから、いくら男女というもののフィルターが、歴史的に理不尽な判断を生み出していたとしても、それを心の中から取り除くことは、人間存在の否定につながる。

だから、男性性と女性性へのイメージは、これからかなりの考え方の転換がない限りは、このまま人間の中にとどまり続け、脈々と受け継がれるはずだ。

3.女性=……

それくらい、このイメージは強固である。
特に女性に対する「可愛いこと」というイメージは、崩れようがない。
その要因は一体どこにあるのか。
その答えは、女性というものが歴史的にどういう存在であったかを知る必要がある。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

※後編は以下よりどうぞ








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