見出し画像

娯楽の時代

飽きられやすい世の中である。
様々なものが私たちの身の回りにあり、手に届きやすく、アーカイブも豊富で、流行り廃りが断続的だ。
そんな昨今にあって、娯楽には「いつもそこにある」ことが求められるようになった。

人間は遊ぶ存在である。
昔から人間は、自ら、そして他者の開発した遊びを楽しんできた。
そこにはまず「楽しむ」ことがあった。それがなにより重要だったのだ。

けれど、人間が遊びと付き合ってから長い年月が経ち、遊びとはただ楽しむものだけではなくなっていった。
それだけでは満足できなくなったとも言える。
遊びに学びを合わせてみたり、誰かを楽しませないことを遊びとしたり、なにより遊びを作ることを仕事とするようになり、私たちが遊び……つまり娯楽へと抱く想いは大きく変化してきた。

今では、娯楽は珍しいものではなくなり、特別なものでもなくなり、遊ぼうと思ってそうするものでもなくなりつつある。
それに、手に取りやすくパッケージ化された娯楽が溢れている。

遊びつくした結果、それを当たり前のものにしすぎてしまった。

その結果が、「いつもそこにあって当然」の娯楽である。
私たちは飽きやすくなったのかもしれない。
あるいは、満足のハードルがものすごく上がったのかもしれない。
もしくは、忙しくなりすぎて娯楽に向き合う時間が取れなくなったのかもしれない。

なんにせよ、娯楽はいつもそこになければ、手に届くところになければ、視界に入っていなければ、遊んでもらえないような存在になっている。

一度手にした娯楽であっても、私たちは容易にそれを忘れることができる。
それどころか、全て遊びつくしていなくとも、容易にそれをどこかへ閉まったままにしてしまえる。

そのような時代だから、娯楽は、娯楽自身が常に発信し続けなければならないのだ。
そうでなければ、埋もれてしまう。記憶がどんどん薄れてしまう。

現代の娯楽は、そんな焦燥感に追い立てられている。
様々な娯楽が出来上がり、消費されていく今は、娯楽にとって全盛期だ。
しかし同時に、厳しい時代でもある。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?