職人は批評家に、批評家は職人になれるわけではない
優れた職人が優れた批評をできるわけではなく、優れた批評家が優れた職人となれるわけではない。それらは明らかに違うものだが、物事について技を持ち極めるということと、それに関して分析し言い表すということは、行き来可能であると、私たちはどうしても思い込む。
とかく、それらは混同されがちだ。
技術は内に宿り、批評は発露するものてあるにもかかわらず、多くの人々が、この違いを認識しないまま職人になり、そして批評家になった。技術あるものが批評し、喧伝の術を持つものが職人となる。それによってますます、両者は混同される。埒が明かない。
何かに関する技術と、その何かへの批評は、どちらかが優れていれば、もう片方もそうなるものではない。そして同様に、どちらかが劣っていても、もう片方が劣ることとなんら関係はない。そして、職人は尊敬されることもあるが、批評家がそうであることは、まだまだ少ない。
だからこの問題は、世の中が批評するという行為を軽んじているという、その風潮にこそあるのである。
批評が軽んじられる理由は、それがスキルだとみなされていないからだ。あるいは、批評に関して何も知らない人々が多いというのもあるだろう。
加えて、批評とは何か揚げ足を取ったり、不必要に掘り返したり、和を乱したり、冷笑したりといったイメージがつきまとう。そしてこれを間違いだとは誰も思わない。そういったところに、正しい認識がついてくるはずがない。
批評とははじめから否定的に軽んじられ、不必要なものとさえされることがある。このような認識こそ改められるべきだが、しかし、私たちはいつまでも批評を認めない。
それは、批評されることが恐いからだ。他者から自分の何かについて分析され、判断され、あまつさえその結果を周囲に喧伝されることに、抵抗感を禁じえない。
だから、私たちはまず、批評家になるのではなく、批評への認識を改めるのでもなく、批評に強くなるべきだ。そして批評家という独立した存在を認め、軽んじないこと。
そうすれば、職人が批評家になることと、批評家が職人になることを簡単には受け入れなくなる。すると真の批評家、真の職人が生まれ、社会は好転していく。
職人と批評家の混同は、批評への恐れからくる。それを乗り越えた先に、技術とその分析に関する輝かしき未来が存在する。
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