ゾミア紀行(7)「 ワ族の原始部落へ」
昆明からミャンマー国境へ
ヴェトナムとの国境の町である河口/ラオカイから、バスで金平(ジンピン)までいった旅の行程は、紅河ヤオ族やハニ族の人たちとのさまざまな偶然の出会いもあって、大変に充実したものとなった。ところが、金平からさらに奥地にある緑春(リューチュン)へ到着したところで、なんの食べ物にあたったのか、旅先でぼくの身によく起きることであるのだが、腹を下してからひどい発熱があり、宿で数日間寝こむことになった。
いや、あのときだとよくわかっていた。夕方に食べた牛肉の内臓を煮んだスープ料理を食べてから、明らかに体調に異変が生じたのだ。人一倍おなかが弱い自分としては、旅先で火が充分に通っていないものや、よく知らない動物の肉を食べないように気をつけていた。当然のことながら、水道水や氷を口にすることはない。そうやって十全に注意していても、あたるときにはあたってしまう。トイレで缶詰状態になり、あぶら汗を垂らしながら調べたところ、症状としてはサルモネラ菌による食中毒に近いようだった。重要なのは、食あたりをしたあとで、それが悪化しないように水分をとり、体調を管理し、身体を一日もはやく回復基調にのせることだった。
3日後にようやく平熱にもどったので、近くのハニ族の村までいって、長老に話をきくことができた。クサザ儀礼のこと、日本列島でいえば新嘗祭にあたる新米を食べる儀礼のこと、稲にやどる霊魂のこと、モーピーと呼ばれる呪術的なシャーマンのこと、人が死ぬときに最後の息を吸いとるという竹筒のこと、村の中心にあって天から神さまがおりてくるという聖樹のことなど。どれも興味ぶかい話ばかりであったが、言葉による伝達でしかなく、なにかを見たり触れたりして実地に確かめることができなかった。断片的な知識と情報ばかりだったので、この村で教えてもらったことを文章化するのはむずかしいと感じた。
病みあがりに多少の無理をしてしまったせいか、ふたたび体調が悪くなり、宿でもう1日寝こむことになった。翌日、現地の薬局で入手した整腸剤を頼りになんとかバスで元陽までおりた。その移動も決して楽なものではなく、雲南省の山奥にある細い崖道が、途中で落下してきた大岩によってふさがれて、バスやほかの自動車が立ち往生する土砂くずれに出くわした。山ぎわにある崖からちょろちょろと鉄砲水が噴きだしているのを見て、「たったこれだけの水で崖くずれが起きてしまうのか」と恨めしくながめた。
同じ雲南省の山岳地帯といっても、標高差があるせいか、最高気温が24度程度のすずしさだった緑春と比べて、元陽は30度をこえる夏の陽気だった。さらに次の日には南沙という町を経由して、平地にある建水までたどり着くことができた。久しぶりに文明の利を享受て、その頃には体調もほとんど回復していた。建水の町で火車站に移動して、鉄道に乗りこみ、ついに雲南省の中心都市である昆明までもどった。こうしてヴェトナムと国境を接する紅河(ホン川)の上流域の山岳地帯をめぐる旅を終えたのだった。
雲南省の山奥において各町を結ぶ心ぼそい山道で、崖くずれにおびえながら、何時間、いや何十時間かけてバスで移動することに飽いたわけではなかったが、そうやって移動をしていると旅程が何十日あっても足りなくなってしまう。そこで今度は、昆明市から南西に400キロ、ミャンマーとじかに国境を接する滄源(ツァンユアン)ワ族自治県へは、空路を見つけることができたので、迷いなく飛行機で飛ぶことを選んだ。
今回の雲南の旅の目的は、タイ北部の山中で会うことのできたアカ族の村と、中国側ではハニ族と呼ばれる彼ら彼女たちの村を比べることだった。それを単に書物や文献上で比較するのではなく、現地にいって言語の状況、民族衣装や民俗がどれくらい残っているかを調べ、可能であれば口述伝承を採集して、実際にその土地をおとずれて実感することでものごとを考察してみたいと思った。そして、もうひとつのテーマは、かねてから関心を抱いていたワ族の文化にふれることだった。
その日、早朝のフライトで昆明を飛び立って、雲南省の臨滄市にある滄源佤山機場という山中にある空港に到着したときは、朝の9時だった。1990年代の前半くらいまでは、国境沿いの地域ということもあるのか、未開放地区として立ち入りがきびしく制限されたいた地域というが、あっけなく飛行機でくることができて驚いた。空港まで迎えにきて、町中にある宿まで送ってくれたのは、李正磊(リー・ジェンレイ)という36歳のタイ族の男性だった。雲南省出身で、名古屋大学で教鞭をとっているアジア映画研究者である馬然さんの姻戚ということで、彼女から紹介をしてもらった人である。
李さんは「自分のことは部族名でレイというので、そう呼んでほしい」といった。レイさんは宿にむかう車中にて、滄源がだいたい標高1800メートルくらいの場所にあること、およそ18万人が住んでいるが、イ族、タイ族、ワ族、リス族、ラフ族、ミャオ族、ジンポー族、プーラン族など、23もの民族が混住する地域だと教えてくれた。このときにはまだ、レイさんからぼくが客人としてすさまじいまでの「歓待」を受けることなど、まったく予想だにしていなかったのだ。
3000年前の崖画
午前中に宿でシャワーを浴び、昼にレイさんが迎えにきた。中国語名が瞿愛源(チュ・アイユェン)という、彝(イ)族の32歳の男性タットゥさんも一緒だった。レイさんとタットゥさんはたがいが「朋友」だと紹介した。3人で滄源県の観光村へいき、昼食をとることになった。レイさんは小太りで背が低いが、どっしりと落ち着いた雰囲気をもつリーダータイプである。一方で、タットゥさんは背が高くて肌の浅黒い、ひたいの両側がはげあがった、おとなしい感じの人だった。ふたりとも30代の若さなのだが、お腹がぽっこりでていた。山奥の地域とはいえ、食生活も含めて豊かになった中国の辺縁の地での生活ぶりがうかがえた。
3人でむかったのは「佤族特色小吃」の料理店だった。男女ともに上半身裸で、腰に木の皮をなめしてつくったスカートを履いていた時代のワ族の伝統生活が、店の外側の白壁に大きく描いてあった。店内にはハニ族の農家で何度も見かけた乾燥したトウモロコシや、ワ族の創世神話にでてくるような大きなひょうたんが飾ってあった。レイさんたちが見つくろってくれたワ族の伝統料理は、たしかに今までの人生でどこでも食したことのない珍しいメニューだった。
黄色いとろみのあるスープは中国語では「玉米湯」と呼ばれ、トウモロコシの粉とかぼちゃでつくったものであり、にんにくとトウガラシをベースにしていた。マニエァと呼ばれるワ族の料理は、中国語ではわかりやすく「鶏肉焼飯」と名づけられ、青トウガラシ、しょうが、パクチーで味つけがしてある東南アジアを感じさせる料理だ。ほかにも「芋花」や「芙蓉餅」がテーブルにならんだ。四川料理ほどではないが、雲南省のどこへいっても麺類や炒め物はトウガラシで辛くした料理が多かったので、「これは本当にむかしからの調理方法であるのか、それとも近年になってから、中華やほかの料理における流行に影響されたものではないか」といぶかった。
「わたしたちが辛い料理を食べるのは、発汗作用が健康にいいからですよ」とレイさんは説明してくれた。
「高床式住居をもつワ族の人たちこそが、のちに日本列島に稲作を持ちこんだ原弥生人ではないかと考えていた人類学者がいます。ですが、こと料理に関しては、日本列島のそれとはだいぶ異なるようです」とぼくはいう。
「ワ族の“倭”という漢字と、倭人の“倭”という漢字が同じというのは、おもしろいですね。2000年という時をこえて、わたしたちが“朋友”であると証明されたら、どんなにいいことでしょう」とレイさんは微笑んだ。
食後にワ族料理をつくってくれたシェフの女性があいさつにきて、外国からの客人がめずらしいのか、せがまれて記念写真を撮った。滄源の町から4、5キロもいけばミャンマーとの国境があり、むこう側にもワ族の人たちが住んでいる。というより、もともと住んでいたところに、国境線のほうが後から引かれたというのか。それとは反対に、中国側の山岳地帯にもどるようにして、勐来村の近くの「滄源崖画」がある山あいにむかった。そこは小黒江という川の支流が流れる、両側を急峻な山裾にかこまれた峡谷だった。細長い平地はトウモロコシ畑になっており、炎天下のなかで村人たちが働いていた。
谷の片側が、岩肌のむきだしになった崖になっており、少しずつ森のなかをのぼりながら、壁画のある崖へとアプローチしていった。外側からみたところ椰子の木が密生するジャングルに見えたのだが、森のなかに入ってみると意外にも竹林があってすずしかった。ときどき、大きな樹木や岩場に水牛の頭蓋骨が飾ってあるのは、なにかの儀礼の名残であろうか。レイさんによれば、崖画は17ヶ所あることが確認されており、そのテーマは狩猟や採集、戦争や舞踏、村落の生活など多岐にわたる。測定から3000年ほど前の新石器時代後期のものとされ、世界的にもめずらしい農耕生活をした人たちの壁画だと考えられている。2020年におこなわれたウラン系列年代測定では、2700年から3800年前の岩絵だと特定された。
ひとつの壁画の前にたどり着いたとき、ちょっとした感興をおぼえた。ラスコーやショーヴェなど数万年前の洞窟壁画とはちがい、外界に面した垂直に切り立った白っぽい石灰石の崖の表面に、赤い鉄の顔料で棒人間たちや動物たちが描かれている。遠近法も奥行きもない平面的な画面構成なのだが、人間や動物の大きさによって、なにが重要で、なにが力をもっているのかを伝えているようだ。崖下の岩絵の前に立って、それをじっくりながめていると、3000年前の人たちの生活と集落の様子がふつふつと伝わってきて、とにかくこの「崖画」は興味がつきない対象に見えた。
たとえば、第1地点の壁画では、画面の右側に弓矢をもつ人や、盾をかまえて棍棒を振りあげる人がいて、戦闘に出かける様子が描かれている。その一方で、集落の中心には、渦巻き模様の木鼓を中心にして、頭に飾りものをつけたシャーマンらしき人物がおどっている。大きく描かれたシャーマンのことを、小さな逆三角形の体をした人びとが取りかこんでいる。これは何かの祭祀か儀礼だと考えていい。逆三角形の服はワ族に特徴的な貫頭衣だと考えて、さらに、その貫頭衣こそが日本列島に原弥生人として渡ってきた倭人と共通するものだと人類学者の鳥越憲三郎は考えていた。【*1】
さらに別の場所にある壁画には、角の大きな水牛をひもで縛って飼い慣らし、ほかにも豚や犬などの家畜の世話をしている場面がある。高床式の倉庫にはハシゴがかけられ、その上に鳥が2羽ずつとまっている。これは、原始的な鳥居に見られる神の乗り物としての本物の鳥であるか、それとも鳥をかたどった呪物であろうか。その建物には屋根からはみだした装飾物として、日本の神社と似た千木のようなものが伸びている。高床式の建物の近くにある地面では、うすに穀物を入れて、交互に杵で稲らしきものを脱穀をする2人の人物がいる。これによって、稲作や畑作がおこなわれていたことがわかる。
第2地点には保存の状態がよく、崖一面にダイナミックに広がる岩絵がある。集落をぐるりとかこむような円形の壕があり、左右に点線で道が伸びている。集落の内側には、大小の異なる家屋や高床式の倉庫が10棟以上あり、やはりここにも杵でうすを搗く人が描かれている。弓矢を手にもち、肩に槍を抱えて集落をあとにする人たちは、狩りにでかけるのか、それとも戦闘にむかうところなのか。それとは反対に、豚らしき家畜の世話をしながら、牧畜をして集落にもどってくる人びとがいる。集落からはなれた場所で、人びとが4つの列をつくってならんでいるのは、棚田か段々畑で農作業をしている風景だろうか。岩絵におけるいずれの部分も、その集落を高所から俯瞰したような角度からながめられており、ひとつの「社会」を見つめる抽象的な視線が獲得されているところには驚いた。
山岳民族の宴
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