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ゾミア紀行(1) 「東ヒマラヤのモンパ」

インド北東部、雲南省、タイ北部、カンボジア、ヴェトナム中部高原など、ゾミアと呼ばれる山岳地帯をめぐる旅。山地民の民俗を探求するノンフィクションです。
第1回と2回は、インドの「東北」でチベット仏教を信奉する、少数民族モンパの人たちの習俗に迫ります。連載の第1回を無料公開します。
※本連載は、以前に著者から預かった原稿を分載したものです(編集部)


インドの北東部へ

 肌ざむくなり、秋というよりは、夜になると初冬の冷えこみが足もとから忍び寄ってくる山形から東京へもどると、それとは対照的に、南方から台風26号が迫っているという10月半ばごろのことであった。熱帯性の高気圧が、逆巻くような雨雲と太平洋上の熱い大気を巻きこみながら、少しずつ首都へと迫ってきている不穏な気配を感じながら、デリー行きの旅客機に飛び乗ったのは、翌日の夕方のことであった。
 空港からニューデリー駅までメトロで移動できたのはよかったものの、駅から一歩外にでれば、30度を超える身体が忘れかけていた夏の暑気であった。それにも増してめまいを覚えるのは、駅の内外に座っている人びとの多さである。東京という都会にいると、誰もがそれぞれ別の方向へ急ぎ足で歩いていることに目まぐるしさをおぼえるが、ここデリーではベンチがなくても駅の構内の床に、自分の荷物の上に、道ばたに、誰もが腰かけている。
「タクシーはどこでつかまえられますか」
 そんなふうに訊ねても、手を横に振られるだけで返答はかえってこない。老いも若きも男も女も、どこへ行ったらいいのか迷い、どうすればいいのかわからなくなって、立ちあがるタイミングを失ってしまったというかのように、地べたに座って行き暮れている。新しく流入する移民の数が限られ、社会全体として極端なまでに高齢化が進む極東の島々からきた人間にとって、雨後のタケノコのようにそこかしこに座している人びとの多さを見るだけで、この街が持つエントロピーを感じ、南アジアの倦怠感にあてられてしまう。
 なんとか混沌とした駅前でタクシーに乗りこむと、今度はオートリキシャやタクシーが車線の区別なく好き勝手な方向に移動している道路へと漕ぎいでることになる。そのさまは、街自体がカオスという名の鳴動するひとつの生き物というのにふさわしいだろう。人びとが吐きだす二酸化炭素が、車両が吐きだす排気ガスが、そして建物から排出される暑気が一体となり、セピア色のスモッグをつくってデリーの街にたれこめている。その霞がかった空をながめると、人類の文明は少しずつ発酵して朽ちていっているのではないか、と諦念のようなものが心のどこかにわき起こってくる…。

  インディラ・ガンディ国際空港から東へインド国内をもどるようにして、たどり着いたのがインド北東部のアッサム州であった。インドの東北はアッサム州、アルナーチャル・プラデーシュ州、ナガランド州、メガラヤ州、マニプル州、トリプラ州、ミゾラム州という7つの州から成り、セブン・シスターズと称される。このエリアを地図上で俯瞰すると、北のブータン、南のバングラデシュにはさまれるようにして、山地のシッキム州が細い回廊のようにあり、飛び地のようになったインドの北東部がある。英領インドであったところが第二次世界大戦後にインドとパキスタンが分離独立することになり、イスラム系住民を中心とする東パキスタン(現在のバングラデシュ)が誕生したことで、短い時間で策定された国境線だったという。
 アッサム州の中心的な都市であるグワーハーティーの空港に降り立ったところ、浅黒い健康的な肌をして、大きな目が特徴的な3人のアッサム女性に迎え入れられた。それぞれ赤とピンク色の中間色、萌葱色、それにベージュ色の生地に緑の模様をあしらった伝統的で、かつ若々しさに似合うサリーを身にまとっていた。
「明日、タワンの町まで飛ぶ予定の者なんですけど」
「どうぞ、あちらにホテルまで行く送迎車が待機しています」
 そういって、ふだんは大学生だという女性が案内してくれた。翌日に東ヒマラヤに入る予定の海外からきた「ジャーナリスト」である筆者の案内役であった。空港をでると、からりと晴れた青空だった。強い陽光の下を車や古いオートリキシャのみならず、この地方都市では道路を埋め尽くすオートバイの数が尋常ではない。街の中心にある道路は舗装されているのだが、路肩を外れると途端に土と砂利がむきだしになった未舗装の路面になっている。道行くバイクを運転する男性はフルフェイスのヘルメットをかぶっているのに、その後ろに横向きに腰かける女性は何もかぶっておらず、少しの衝撃で振り落とされてしまうのではないかと心配になってしまう。せわしなく行き交う車やバイクのなかで、我関せず、ひとり牛の鼻を引いて歩いている老人がいる光景をみて、「ああ、久しぶりにインドの田舎にもどってきたな」という安堵感をおぼえた。
 ヒマラヤ山脈の反対側にあたるチベットを東西に横断するツアンポー川が、インド側のアルナーチャル・プラデーシュ州の山々を支流となって進み、アッサム州の平野にまで下ってきて、悠久の大河ブラマプトラの豊かな流れとなる。グワーハーティーは大河のほとりで発展した都市である。ホテルの眺めの良い高台から、南国の樹々の狭間にブラマプトラの河岸をながめると、やがてこの水がバングラデッシュへと注ぎこみ、カンジス川と合流して、ベンガル湾岸のデルタ地帯に流れていくことが想像されて、頭に思い浮かぶ地図のスケールを超えてしまい、クラクラと軽いめまいをおぼえてしまう。その夜、ぼくは実際にブラマプトラの川を下る船に乗り、はじめて会う人たちとキングフィッシャーのラガービールを飲んだのだが、ゆったりと流れる濁流はまるで大きな湖のように物静かで、ほとんど揺れることもなく遊覧船はブラマプトラの中洲と対岸を行き来したのであった。

グワーハーティー市を流れるブラマプトラ川

空路で東ヒマラヤへ

 インドという国に残る最後の秘境のひとつである北東部への旅が、とても魅力的なものに映ったのは、本来であれば地上を何日もかけて車で登っていかなくてはならない旅程であるのを、今回はインド軍がチャーターしたヘリコプターで飛んでいけることにあった。グワーハーティーから東ヒマラヤのタワンという仏教徒の町までは、ほぼ真北に100キロほどの位置にある。タワン自体は標高3000メートルの地点にあるが、中途でブータンの山々の上を飛んでいき、セ・ラという約4114メートルの峠を越えなくてはならない。だから、アッサム州から陸路で登る場合には何日もかかる。
 ひとつの問題は、アッサム州からひと飛びに東ヒマラヤまで行く空路は、気流が安定しておらず、非常に航空機事故が多いということだった。ぼくがそのヘリコプターに乗る前年にも、州知事が乗った機体がまったく同じルートを飛んでいて墜落し、死亡事故が起きたところだった。ほかにも事故が頻発しており、グワーハーティーからタワンへと飛ぶ民間機の空路は休止してしまい、緊急時にはインド軍の輸送用のヘリコプターが必要に応じて飛ぶことになっていた。しかし、正規軍の航空機だから安全が保障されるというわけでもなく、近年でも次のような事故が起きている。
 2017年10月、インド空軍はロシア製の軍輸送用のヘリコプターでタワンにむかっていてタワン近郊に墜落し、パイロットや乗組員ら7人が死亡した。「AFP通信によれば、このエリアでは30年のあいだにヘリコプターや航空機の事故で170人以上がなくなっている」とのことだから怖ろしい。【*1】また、2022年10月には、定期的に運行されていた陸軍のヘリコプターが同じようにタワン付近で墜落し、パイロットが死亡、副操縦士が負傷するという事故が起きている。ひとことでいえば、タワンまで行く空路は事故が多発する難所であり、しかもインド軍や民間会社は、事故を防ぐための抜本的な対策を見つけることができず、必要があるたびに運航を続けている状態にあった。
 そんなこともあって、前日からフライトの時間までビクビクしていたのだが、グワーハーティーの空港の隅にあるヘリポートへ案内されてみると、オレンジと白の機体を持つロシア製のMi-172という輸送用のヘリコプターが待機していた。それは州知事が搭乗して墜落したヘリコプターとまったく同型の機体であった。ぼくはこの世の見納めとばかりに、そのヘリコプターの機体の写真を数枚撮ってから搭乗した。10数名程度の乗客に、あとは3、4人の乗組員であった。制服を着た副操縦士のひとりが、搭乗口の近くで乗客と相対して座っており、ときどき目があう。彼が背筋をぴんと伸ばして落ち着いている様子を見て、こちらもなんとなく心の動揺がおさまっていく。
 ヘリコプターは垂直に離陸するのかと思っていたが、頂部のローターがけたたましく回転して、胴体がふっと宙に浮いたかと思うと、ほとんど斜めに中空を滑空していった。飛行機に比べて、パタパタとローターが回転する振動を体に感じながらの飛行は、なんだか心もとない。グワーハーティーの街中を離れたら、ブラマプトラ川のまわりに稲作の水田と茶畑からなる濃い緑色の大地が広がった。やがて川の水系が途切れるあたりで、急峻な山脈が現れた。豊かな緑の森を切り裂くように、左に右にうねる茶色の道があり、尾根から尾根へと続く建物や道路がはるか下方に見える。となりに座っているオーストラリア人の女性によれば、「山地に入ったあたりからはブータンのはず」とのことだった。ヘリコプターの窓から初めてながめるブータンは山上の王国で、大変な高地を切り拓いて道路や建物をつくり、何とか人間が住めるようにしている土地に見えた。
「ブラマプトラ川のまわりに広がる水田と、突然に現れた山岳地帯とでは、まったく対照的な世界ですね」と、ぼくはとなりの女性に感想を漏らした。
「地勢だけじゃなくて、住んでいる人たちも全然異なると思いますよ」
「どういうことですか」
「アッサム人は肌の色が濃いヒンドゥー教徒が大半だけれど、山岳地帯に入るとチベット系のモンパや、ミャンマーの少数民族に近い人たちになるとのことです。そうね、ちょうどあなたのようなモンゴロイド系の人たちでしょう」
 60代後半くらいだろうか、ロマンスグレーの白髪をしたオーストラリア人女性はそういってやさしくほほ笑んだ。

  1時間半くらいのフライトだったか。その日はとても穏やかな秋晴れの日で、東ヒマラヤの山脈へと近づくにつれて曇りがちになったが、運が良かったのか、突風が吹くとか、天候が不安定になるということはなかった。山地にかこまれたヘリポートを目がけて、ヘリコプターは斜め下方へと滑空していき、無事に着陸した。まわりに多くある山々の山頂のひとつにつくられた、丸く舗装されたヘリポートであった。荷物を片手にもち、数段しかないタラップをおりると、一挙に冷たい高地の風が顔をなでた。昼すぎではあったが、20度を下回るくらいであろう。遠くに見晴るかす東ヒマラヤの高地は、濃い雲がかかっており、周囲の山々の尾根はよく見えて360度のパノラマの光景が広がっている。
 定期便がない空港なので到着ロビーはなく、ヘリポートの真んなかで、サリーを身にまとったアッサム人と思われる若い女性と、うすい褐色の肌をした山岳少数民族と思われる女性が、温かいアッサムティーをふるまって降機した訪問客たちを歓迎してくれた。滑走路のある敷地と道路を仕切る門のむこうに、出迎えなのか見物なのかわからないが、十数人の男たちがたむろって、こちらを見つめている。インド系の軍人、モンパやニシの人たちに混ざって、頭を丸めて臙脂色の僧衣に身を包んだチベット僧もいた。
「インドとは異なる文化圏にやってきたな」とその光景を見て実感した。 

タワンに到着したインド空軍のヘリコプター

チベット仏教の世界

 ヘリポートから四駆のジープに乗りこみ、右に左に蛇行する山道をタワンの町へとおりていく。ふっと見晴らしのよいスポットにでると、なだらかな三角形を描く山頂から裾野にかけてに円錐状にタワンの町が広がり、その頂点に位置するタワン僧院の大きな建物があり、眼下に町をおさめている。写真で見たチベットのラサの風景とよく似ている。実際にタワンの町から十数キロ北にはチベット自治区(中国側)があり、1950年代から相争う中国とインドの国境線はいまだに確定していない。チベットとタワンの関わりは、政治的にも文化的にも宗教的にも深いものがある。助手席に座った通訳のサンゲ・ツェリング・キーさんが、後部座席のぼくの方を振り返りながら話してくれる。
「モンパは昔からこの土地で暮らす少数民族ですが、後から入ってきたチベット仏教(昔はラマ教といった)の影響を大きく受けています」
「もとは仏教徒ではなかったんですね」とぼくが訊く。
「ええ、ボン教と呼ばれる土着の信仰がありました。それにチベット仏教が習合していき、いまの信仰のかたちになっています。ここで降りましょう」
 タワンの町のいたるところにゴンパ(寺院)があった。街の入り口か寺院の門かわからない赤門をくぐり、サンゲさんについていく。家や寺院の屋根の上に、タルチョと呼ばれる白、赤、緑、黄、青の5色の旗がロープで張り巡らされていて、風に揺れている。ルンタとも呼ばれる祈りと魔除けの旗だ。旗の1枚1枚にはびっしりと経文が印字されており、風ではためくたびに経文を詠んだことになり、功徳が積めるのだという。
 タワンという町とチベットの関係史をおさらいしておこう。1914年に条約で決められた中国(チベット)とインドの国境線となるマクマホン・ラインだが、中国側が認めておらず、いまだに国境線を確定できずにいる。1951年に中国に併合されたチベットでは、1959年にチベット動乱が起き、ダライ・ラマ14世はインドに亡命する。そのときに立ち寄ったのがタワンだった。タワン僧院に併設された博物館には、1959年にチベットから亡命してきたとき、一般人に変装したダライ・ラマ14世が近郊のディラン村を、兵士や伴の者に付き添われて歩くモノクロ写真で展示されている。
 そのほかにも、整列したインド兵の前を歩くダライ・ラマ14世の姿や、博物館に陳列された織物を彼が見学する写真が展示されていた。1962年9月には、チベット自治区とインド側の国境にある峠で小競り合いが起き、翌月に中国軍がインド軍を撃退し、タワンの町を占領したこともある。11月に中国軍が撤退したことで戦闘は終わり、それ以降はインドが実行支配を続けている。【*2】そのような歴史的な経緯もあり、モンパの民が大勢を占める5万人から6万人ほどの人口のタワンは、表面上はチベット仏教一色の町に見えた。
 サンゲさんと少し歩くと、街中に黄色い屋根のゴンパがあった。まわりを囲む外壁はレンガを積み重ねたもので、全面に白い漆喰が塗ってある。外壁には赤字にカラフルな文様を描いた窓枠がある。そのむこうには寺院の庭が見えて、外壁の枠のなかに大きなブロンズ製のマニ車がならんでいる。マニ車の表面にはサンスクリット語のマントラがレリーフで施してあって、芯の内側には経文が入っているのだという。赤茶けた色の表面は人びとが何度も何度もさわったせいか、つるつるして光っていた。サンゲさんが説明をしてくれる。
「これもタルチョと似たご利益があるあものです。手で回転させるだけで、経文を詠んだことと同じになります。仏教徒は信仰に熱心ですが、ちゃっかりした面もありますね」
 壁一面にならぶマニ車を、ひと通り回転させてみた。複数の車軸が同時に回って、きりきりと芯がきしむ音があたりに響き渡る。その音が心地よかった。そんな情景をながめているところへ、買い物袋をもったモンパの老婆が歩いてきて、腰をかがめて歩道を一段あがった。彼女は手を伸ばして、丁寧にマニ車をひとつひとつまわしていく。信仰が日常生活に溶けこんでいるさまを目撃して、静かな感動をおぼえるひと時だった。

タワン市内のゴンパ(寺院)とマニ車

 サンゲさんは30代前半の男性で、黒字に青のフェルトでできたカンジャールというモンパの上着を羽織っていた。とても暖かそうな服だ。英語をかなり自由にあやつり、助手席に座ってヒンディー語のヒットソングをステレオで再生して、それを口ずさむ現代的な若者でもあった。地元の高校をでてインドの大学に通ってから、またモンパの土地にもどってきたそうだ。東ヒマラヤの標高3000メートル以上の高地にある町だが、最近は衛星放送によって世界中のテレビ番組が視聴できるようにになり、スマートフォンが通じる領域も年々広がっており、特に不便は感じないという。
「チベット仏教といえば良いところがありますよ、ちょっと寄りましょう」とサンゲさんがいい、宿に行く前に1箇所立ち寄ることになった。
 広い黄緑色の芝が広がる敷地に、レンガ造りの古い家が建っていて、壁は白い漆喰で塗り固められている。トタン屋根と窓外に設えたカーテンが黄色いので、色彩的にはかわいらしい印象を与える。母屋から庭へとつづくテラスの屋根まで、カラフルなダルチョが張りわたされていた。ここは、17世紀後半にダライ・ラマ6世として転生したツァンヤン・ギャムツォの生地であり、いまはウルゲリン(またはオギェンリン)僧院の建物だった。
「この樹齢が数百年といわれる木を見てください」
 サンゲさんはそういって、2本の老樹の前で立ち止まる。周囲の長さが数メートルはある太い幹。地面に根をはるそのうち1本は、自然に倒れないようにするために、根元をコンクリートで補強してあった。2本の老樹の前で色とりどりのダルチョがはためいており、聖性が発揮される場所に独特の神秘的な雰囲気を醸しだしていた。
 案内板に書かれた文章によると、この場所は1497年にウルゲン・サンポという人物によって建てられたニンマ派の僧院だった。およそ200年の時を経て、1683年にここでツァンヤン・ギャムツォが生まれた。後年にダライ・ラマ6世になった彼が奇跡的なおこないをしたという証拠は、現代まで残っている。彼はこの地からチベットへと去るときに、自分の杖を地面にさして植樹した。そして「杖が木になって、3本の幹が僧院と同じ高さまで成長したときに、自分はタワンの地にもどってくるだろう」と予言した。残念なことに1959年に強風が吹いて、幹のうちの1本は倒れてしまったが、同じ年にダライ・ラマ16世がインド側へ亡命してきて、転生した姿で帰郷が果たされたと人びとは考えているようだ。ダライ・ラマへの畏敬の念には根強いものがあるが、そのこと以上に、ヒマラヤの片隅の高地に素朴な奇跡のエピソードが残っていることの方に心を動かされた。
「あの人たちは何をしているのでしょうか」
「近くに行って、見せてもらいましょう」
 ウルゲリン僧院の庭に、床がコンクリートになった見晴らしの良いテラスがある。屋根の下に大きなテーブルが置いてあり、無数の金色の容器、銀色の容器、ブロンズ色の容器が規則正しくならべてあった。頭を坊主にし、赤い僧衣を身にまとった小柄な老女が、大きな銀色のヤカンをもって、ひとつひとつの容器に水を注いでいく。テーブルをはさんだ反対側にはモンパの衣装を着て、頭にピンク色の帽子をかぶった中年女性がいて、水で満たされた容器を手にとり、床にあるバケツへと水を捨てていく。すると、僧衣の老女がそのバケツからヤカンに水を汲み、また容器に水を注ぐ行為をくり返していく…。サンゲさんは、この水の修行をモンパの仏徒がユウン・チャップと呼んでいるといった。
「ひとりの女性が一日中、水を汲みます。もうひとりの女性は、反対に水を捨てつづけます。ふたりとも絶対にしゃべってはいけません。そのような行なのです」
「以前にどこかで読んだことがあります。チベットの僧侶は1週間近くかけて、砂で精巧な曼荼羅を描く。すると高僧がきて声明を唱えたのち、一気にその完成後の砂絵をこわしてしまう、と」とぼくは答えた。
「そうですね。このような修行は、どんなものも、自分の肉体さえも、いつかは滅びるという虚しさを教えてくれます」
 ぼくたちはひそひそ話のように小さな声で、そんな会話を交わした。足音を立てることも気づかいながら、その場所を離れようとしたとき、高地にあるテラスに一陣の風が舞いこんだ。その風がテーブルにならべられた容器の水面を一斉に震わせて、かすかにだが、楽器のような高音をわななかせた。確かにその響きを去りぎわの背中に感じたのだ。

ダライ・ラマ6世の生地、ウルゲリン僧院
モンパの仏徒による水の行


 *1「インド空軍ヘリコプター墜落、7人死亡」BBC NEWS 2017年10月6日 https://www.bbc.com/news/world-asia-india-41522610
*2『モンパ インド・ブータン国境の民』脇田道子著、法蔵館、2019年、92-93頁


【文と写真】
金子 遊  評論家、民俗研究者。近著に『インディジナス 先住民に学ぶ人類学』(平凡社)、『異境の文学』『マクロネシア紀行』(共にアーツアンドクラフツ)など。 


 


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