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リトル・ビット・ワンダー「金環日食」

 ゆったりと、大きく波打つようにうねる丘。色とりどりの花畑が、どこまでも続いている。
 一台の車が、その道端に止まった。
 加賀里ユリは車から降りて、空を見上げた。
 そこにはすっきりと晴れた青空が広がっている。今朝、東京の家を出たときには、どんよりとした梅雨の曇り空だった。さすがは北海道だ。
 頭上にふたをされたような曇り空が、突き抜ける高い青空へと変わる。旅先であることも相まって、普通なら開放された爽快感を得るところだろう。
 でも彼女は違った。
 彼女の心には、東京の空のように、薄暗い曇り空が広がったままだった。
 傾き始めた太陽が、西寄りの空にかかっている。そのまぶしさに、ユリは目を細める。
 今日はこの太陽を見に来た。正確には、これから金環日食が始まるのだ。
 金環食は日食の一種だ。日食は、太陽、月、地球が一直線に並び、月の影が地球に落ちることによって起きる。月の直径は太陽の約四百分の一。しかし太陽がその分遠いので、見た目は同じぐらいになり、ちょうど月に太陽が隠れる。
 ただ、太陽と地球、月と地球の距離は一定ではない。軌道が円ではなく、楕円になっているからだ。そのため、月が太陽を隠しきれないときがあり、その場合には、太陽のふちが光の輪として残る金環食が起きる。
 ちなみにこの現象は、地球の歴史から見ると、今の時期にしか起きないスペシャルなイベントだ。
 月は誕生以来、だんだんと地球から遠ざかっている。今でも年に三センチずつ離れていっていることが観測されている。つまり、月がちょうど太陽を隠せるか隠せないかという大きさに見えるのは、今の時期だけなのだ。
 だから心して楽しまないといけないよ、とあの人は言った。
 ユリはふと、顔を曇らせた。

 この知識を楽しそうにユリに語ってみせた彼は、今はもう、そばにいない。

 彼女はかばんから日食グラスを取り出した。太陽を長いこと直視するのは、目に悪い。日食観察には遮光性の高い日食グラスが必要だ。
 これも彼がくれたものだ。スペインに、二人で日食を見に行った。
 太陽のふちに月の影がかかる。
 ざわざわと、風が吹き始めた。太陽が欠けたからか、少し気温も下がって感じる。
 一人で野に立つ肌寒さに、彼女は小さく身震いした。

 月面基地計画があった。当初はあまり見向きもされていなかった計画。予算獲得のためのアドバルーンとさえ言われていた。
 だが事情が変わる。宇宙開発が本格化してくると、ビジネス利用の利権の獲得が問題になってきた。過去の地球で、そこにたどり着いた者が領有権を主張してきたように、宇宙でもそれが繰り返される雲行きとなった。宇宙開発は国家の死活問題となった。
 眠っていた計画が掘り起こされ、無理なスケジュールで推し進められた。不眠不休のデスマーチ。それは比喩ではなく、本当に死の行軍となってしまった。
 無理な進行は、事故を招いた。月からの遺体回収には莫大なコストがかかり、無理だと見送られた。子供のころから月にあこがれていた彼は、文字通り帰らぬ人となり、そのまま月に眠っている。

 太陽は欠けていき、辺りは薄暗くなった。
 日食は古来、太陽の死として恐れられた。命の源である太陽が欠けてなくなっていくさまは、確かに恐怖であったに違いない。太陽を王としてみなし、政変の前触れであるとも言われた。
 だが、日食は実際には月の太陽面通過に過ぎない。欠けた後には戻っていく。死は必ず、再生につながる。
 でも私の中の太陽は、見えなくなったまま帰ってこない。
 いつまでも悲しんでいるだけではいけないと、分かってはいる。でも、時折ポツリポツリと雨が降る、心の中の梅雨空は晴れない。私の背中を押してくれた、あの手がなくなってしまったから。
 中心食が起きた。月の影の周りに、きれいな光の輪が巡る。
 ユリはそっと左手をかざし、薬指を太陽に向けた。
 あの時、そうしたように。

「左手を前に、太陽に向けて。ちょうど薬指の先に太陽が来るように」
「え? どうして?」
「いいから、早く、早く」
 いたずらっぽくせかす彼をいぶかしみながら、ユリは言われたとおりに手をかざした。
 背後に立った彼は、ユリを抱きかかえるようにして、その左手を支え、自分の手を重ねた。
 手を軽く丸めると、太陽の光の輪が、二人の薬指の上に指輪のように光る。
「結婚してほしいんだ」
 ほほを摺り寄せ、耳元でそっとつぶやいた彼の声は、いつものからかうような感じではなく、少し震えていた。
「……うん」
 ユリは彼女を抱く彼の腕にそっと手を添え、小さくうなずいた。

 今も太陽の指輪は、ユリの左手に光っている。
 太陽のダイヤモンドリング。
 ユリのほほを、つうっと涙がつたった。
 今頃彼も、地球を見つめているのだろうか。
 私がいつも、月を見つめているように。
 今頃彼も、私を思ってくれているだろうか。
 私がいつも、彼を思っているように。
 その時ふと、ユリは思った。月から見た地球は、どう見えているのだろう。
 月が新月ということは、地球は正面から太陽の光を受けているから、満月。
 いや、満月ではなくて、満地球か。
 ……満地球?
 自分で考えた言葉の語呂の悪さに、ユリはくすりと笑った。
 中心食が終わり、欠けた太陽が戻り始めた。
 太陽から離れていく月を、ユリはじっと見つめていた。
 太陽の、死と再生。
 ふと、ユリは背後に暖かさを感じた。
 懐かしい、あのぬくもり。
 振り返ったが、そこには、当然、誰もいない。
 ただ、ゆったりとうねる丘陵地が、広がっているだけだった。
 欠けた太陽がまた出始めて、気温が戻ってきたからかも。
 多分、そういうことなのだろう。
 でも、もしかしたら。

 彼が帰ってきてくれたのだとしたら。
 私の背中を、押しに来てくれたのだとしたら。

 太陽から月は離れ、西の空は赤く染まり始めた。
 美しいグラデーションを見せる夕空に、彼女の曇天もまた晴れていくような気がした。
 ひとつ、ひとつ、星が夜空を彩り始めた。
 ユリはその星空の下、ずっとたたずんでいた。

〈了〉

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