リトル・ビット・ワンダー「こんにちは赤ちゃん」「究極の美食」
こんにちは赤ちゃん
「ふやああああ」
どこか気の抜けた声でその子は泣いた。
「あー、よしよし、まあくんどしたのかなー、ウンチかなー、おなかすいたのかなー」
マリコは声をかけながら、赤ん坊を優しく抱き上げ、慣れた手つきで確認する。
うん、おなかがすいているみたいだ。ミルクの時間だ。
こちらも手早く用意すると、哺乳瓶をそっとまあくんの口元に差し出す。まあくんはすぐさま吸い口をくわえ、もにゅもにゅと吸い出した。温度は完璧な人肌だ。一度たりとも外さない。
それもそのはず。育児アンドロイドのマリコは、内蔵されたセンサーを総動員して、0コンマ一度以内でミルクの温度をコントロールしているのだから。
触覚センサーに加え、視覚センサーで赤外線を捉え、温度測定もできる。まあくんの体温測定もリアルタイム。体調管理もぬかりない。
まあくんはやがておなかも満ちたようで、満足気に哺乳瓶を離した。抱え上げて、背中をぽんぽんと叩く。けぷーと可愛いげっぷをもらす。ぷにぷにの肌が触り心地がよくて、つい頬ずりしてしまう。
甘いミルクの匂い。本当に愛おしい。
アンドロイドの自分が「愛おしい」などと、と思われるかもしれない。だが、この内側から湧き上がってくるものは、そうとしか定義しようがない。人の感情だって神経細胞の間の電位のやり取りであり、化学変化の産物ではないか。それが半導体の中で起きているだけで、何が違うというのか。
とにかく自分はまあくんを愛しているのだ。こんなにも大切な存在を感じたことは、今までなかった。自分のすべてがまあくんのためにあり、命を投げだすこともいとわない。
そんな深い深い全身全霊の愛をマリコはまあくんに注いだ。
まあくんは大きな病気もなく、すくすくと育った。はいはいし、立ち上がり、やがて言葉を覚えた。マリコのことが大好きで、まとわりつくように、いつもべったりとそばにいた。
「ねえねえ、マリコ」
「なあに、まあくん?」
「まあくんね、マリコのこと大好き! 大きくなったら、マリコのお嫁さんになる!」
「まあ、嬉しい。でもね、まあくん、お嫁さんは女の子がなるんだよ」
「えっ、じゃあ、まあくんなれないの……。マリコがなってくれる?」
「いいよー、まあくん。マリコもまあくん大好きだから」
「ありがとー!」
まあくんはマリコに飛びついて、頬にちゅっとキスをした。
まあくんはさらに大きくなり、少年と呼べる年になった。背も伸びて、マリコと同じかそろそろ抜きそうだ。昔のようにマリコにべったりくっつくことはなくなった。
むしろマリコがべたべたすると、疎んじるそぶりを見せるようになった。男の子としてはありがちなこととはいえ、それはちょっと寂しかった。
けれどときおり恥ずかしそうに、優しい言葉があったりした。
赤い花をそっと差し出すまあくん。
「マリコ、いつもありがと……。これ、母の日の……」
「えっ、ありがとう、まあくん! でも、いいの? 私はアンドロイドで……」
「マリコ以外にお母さんはいないよ」
まあくんは少し怒ったような、そして照れたような顔で真っ赤になって、ぷいと向こうに行ってしまった。
普段素っ気ない分、その威力は増していた。息子は母親の永遠の恋人とはよく言ったものだ。感極まったマリコが、まあくんに抱きついて、いつも通り疎んじられたのは言うまでもない。
悲しい別れの日がやってきた。まあくんはすっかり大人びた身体つきになっていた。もう育児アンドロイドのもとを離れ、次の養育施設へ向かわなくてはならない。そこで一人前の社会の構成員となるべく、訓練が行われる。もう、母親の無条件の庇護が必要な年ではなくなったのだ。
荷物を整え、家を出る矢先、まあくんはマリコをぎゅっと抱きしめた。
「今までありがとうマリコ。俺、マリコの子供になれてよかった」
「まあくん……」
小さな頃はまあくんがマリコの胸に抱かれて見上げていたのに、今ではマリコがその胸に抱かれている。
「それじゃ、元気で」
まあくんは旅立っていった。
まあくんがいなくなった家の中は、まるで火が消えたようだった。
センサーから入る数値は、この部屋がきちんと温度管理されていることを示しているのに、肌寒さすら感じた。
そしてそれよりも、胸にぽっかりと穴が開いたような、身体の一部がもぎ取られたような、筆舌に尽くしがたい喪失感があった。
私はまあくんのために生きていたのに。
私はまあくんのための存在だったのに。
まあくんがいない生活なんて考えられない。
まあくんがいない自分なんて考えられない。
まあくん、まあくん、まあくん、まあくん……。
リセット。
「うわあああん」
火がついたようにその子は泣いた。
「あー、よしよし、かっくんどしたのかなー、ウンチかなー、おなかすいたのかなー」
マリコは声をかけながら、赤ん坊を優しく抱き上げ、慣れた手つきで確認する。
うん、おなかがすいているみたいだ。ミルクの時間だ。
こちらも手早く用意すると、哺乳瓶をそっとかっくんの口元に差し出す。かっくんはすぐさま吸い口をくわえ、ぐいぐいと吸い出した。
かっくんはやがておなかも満ちたようで、満足気に哺乳瓶を離した。抱え上げて、背中をぽんぽんと叩く。けぷーと可愛いげっぷをもらす。ぷにぷにの肌が触り心地がよくて、つい頬ずりしてしまう。
甘いミルクの匂い。本当に愛おしい。
アンドロイドの自分が「愛おしい」などと、と思われるかもしれない。だが、この内側から湧き上がってくるものは、そうとしか定義しようがない。人の感情だって神経細胞の間の電位のやり取りであり、化学変化の産物ではないか。それが半導体の中で起きているだけで、何が違うというのか。
とにかく自分はかっくんを愛しているのだ。こんなにも大切な存在を感じたことは、今までなかった。自分のすべてがかっくんのためにあり、命を投げだすことも……。
〈了〉
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