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私がツイッターとつなげなくなった理由

 これは、昨年11月入ってすぐに書いたものです。一年くらい前にツイッターとつなげなくなり、その思いをなかなか書けず、書いても今度はなかなか載せる勇気がなくて。でも今読んでも同じ気持ちなのと、今なら勇気がなくても載せられると思ったので、長い長い熟成期間を得て、表に出すことにしました。なかなか人って(自分て)変われないものだなとも思いました。最近と同じようなことで葛藤していたようで。
 フォローをこの前たくさん外して、すごく申し訳なく、自分の許容量が残念で仕方ありません。たくさん理由を書きたいけど、言い訳にしか読めないと思ってやめました。頑張らないようにしないとまたひどいことを繰り返してしまうから、気を付けたいと思っています。
 この下書きは、しっかりしろ私。の思いも込めて、よほど目につくところ以外は、そのまま全文変えずに載せます。


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 ツイッターを閉鎖して何か月も経ったけれど、やめたわけではない。だって本来、お笑いやミュージシャン、MCU(マーベルシネマティックユニバース)の情報がほしくて始めていたので。
 noteとツイッターをつなげるのを、極力減らしている。ツイッターも、一度に2つ以上のアカウントを作る気はない。

 noteでは、フェイスブックやツイッターとつなげるのを推奨している。
 自分の作品が世に出るのを望んでいる人たちも多くいるから、それも一つの方法。

 だけど、noteってそうやって始めた人ばかりではない。私みたいに、自分の頭の中を整理したり、日常をただ共有したかったり、書きたいことが溢れるからその場所が欲しかったり。読んでくれたら嬉しいくらいの気持ちで書いている人だっているはずだ。

***

 学生時代、仲良し5人組の中にいた。

 中学三年生から高校卒業まで、校内でベッタリとしていた。楽しくて笑ってばかり。相談事もしたし、内緒話を打ち明け合ったりもした。でも自分が巡らす考えだとか、気持ち、深い思いに関して話すのは別の友達たちだった。

 高校を卒業するとバラバラになったから、待ち合わせて話す機会を度々設けた。
 でも大学生くらいになると、さすがにお互いの考えだとか、信念だとかに触れないわけにいかなくなって、私は愕然としてしまったのだ。

 そこにいる5人が5人、考え方がどうやら違う。一人が意見を言って反論するとか多少は議論もあったけど、他の4人がそれぞれに違うのを感じ取った。私など反論だらけ。違い過ぎてどこから話したら良いかわからず黙ってしまう。

 ここは一緒だけど、ここは違う。など受け入れ合いたいけれど、私たちの「一緒」は過去の学校生活だけ。例えば教育に対する考え、文化に対する考え、社会に対する考え、将来に対する考え、「違いに対する考え」すら、違い過ぎた。私はそれまで表面的に付き合ってきた彼女たちを前に、呆然としてしまった。でもそれまでの付き合いを思うと、離れられず。

 5人で集まると、皆が少しずつ競争意識を持っているのも感じ取り、それもまた疲れた。

 彼氏ができたり、結婚したり、子供ができたりすると、自分の相手のことや子供のことでそれはさらに露呈してきた。
 そこでも、考え方の違いが大きく出てしまう。自分たちの子供の何を競争するの。ダンナについてだって、自分のことでもないのに何を比べているのだろう。

 それでいて、自分が子育てのストレスたまり、手を出してしまったとか、うまく接することができないとか、何となく話してくれても、核心部分を話さない。肝心のそこは、相談や議論をいやがった。その気持ちはわからなくはないけど、でももう15年以上もの付き合いなのに。

 もう良い。
 
 私の中で何かがはじけた。

 連絡を一切取らなくなった。私はひどいやり方で離れてしまった。皆にとっても、腹が立っただろうと思う。今も時々罪悪感で、夢に出てきてしまう。でも無理して連絡を取るのはもっと苦痛。

***

 ツイッターをやっていて怖いなと思ったのは、そうやってnoteでの態度と違う人たちが多かったこと。ここで集まる時とあそこで集まる時と違う。核心部分もよくわからない。

 コメントで「素敵な文章だった」「この文に胸を打たれた、大好き」と書いてくれる。少し大げさに書いてくれているのだろう。社交辞令でお世辞だろう。そう思っても、やっぱり喜ぶ。

 ツイッターを開く。
 違う方のnoteの紹介をしている。「素敵だった」と。

 あれ?
 ……私のはそれほどでもないのか。

 あはは。そうだよね。そりゃそうだ。
 うっかり裸の王様になるところだった。

 「別にそれほどでもないから」「大したことないってば」「勘違いしないでよ」「ツイッターの方が本音だから」を、毎度毎度突きつけられているみたいで、しんどかった。

 とりあえずそこで紹介されているその人の文章を読む。
 おお、心打たれたと思う。
 でもさっきツイッターで誉めていた人たちがコメントに何かを書いているわけではない。

 ツイッターを見返すと、その人のnoteの紹介が溢れている。
 「素晴らしかった」「さすが」「私もそう思う」「私も書くからツイートしてね」「私も」「私も」。

 お返し。
 どこまで心からかわからない褒め合い。
「私たちは仲良し」の主張。推しの記事には本に付くような「帯」の言葉がつく。褒め方も気を遣う。
 noteでもツイッターでもずっとつながっていなくちゃいけない空気。

 最初はこの流れに乗らなきゃと、私もそう思う! 素敵な文章でした! と同じようなテンションで盛り上がってみた。その瞬間は楽しかった。仲間になった気がした。

 人が自分の文章を珍しくツイートしてくれた時も、ちゃんとそれに気が付いて、相応の反応しないと、もう紹介してくれないのではと毎日焦った。

 だけど、ツイッター仲間でない人や、noteとつなげていない人たちはこれを知らないことになる。ツイッターをあまりやっていない人で、noteでフォローし合っている人もいるから、後ろめたかった。私はあの人もお気に入りなのにな。あっちの人との方とも仲良くなりたいのにな。

 noteのコメントで書き足りないのであれば、そうやって個人的に書くのもやり方だ。でもnote上ではわからないツイッター仲間で盛り上がるのは私にはなじみ切れなかった。noteだけでつながる人たちを仲間に入れないみたいで。そんなの考えなくて良いのかもしれないけど。私には向いていないのだろう。

 いちいち心が揺さぶられることに疲れた。心がすごく擦り切れた。HSP(highly sensitive person)の特性から感じ過ぎるのだろうか。ボロ雑巾の気分だった。

 
 今も思い出してもとても悲しい。

 公式での集まり、非公式での集まり、そういったものも私にはそう見える時がある。行っても良い、行かなくても良い。心地良い方を選択すれば良い。それぞれの楽しみ方があって、お互いを尊重する。noteってそんな素敵な場所。一旦はそう思えた。そういう人たちも多いだろう。でも中には違う人たちもいるようだ。

 「仲間に入らないならおざなりに接して良い」「来ないなら今後も読まない。だって別につながりがないもの」「取上げなくて良いでしょ」。
 思い込みだとしてもそんな風に見える。コメントや返信で、毎回無視する人もいた。つっけんどんな「この人にはとりあえずこんな返信しときゃいいでしょ」という気持ちが伝わる人もいた。

 本当は多分、他の方たちとの付き合いがあって、それどころじゃないのだろう。わざとではなくて、忙しいのだろう。それほどには私の文章に興味ないのだろう。そこは人それぞれ好みがあるから当然。

 そんな風に理解はできても、だとしたら、無責任に誉めたりすり寄らないでほしい。結局、ツイッターでのつながりが、私にとっては強迫的なことに疲れたのだった。

 ただ。

 
 私はそういう付き合いを抜けてから、新しい人たちとnoteで知り合えた。ツイッターでやり取りしようとしなかろうと、紹介しようとしなかろうと、スキをつけようとつけなかろうと、コメントしようとしなかろうと、今、読んでくれて、スキをつけてくれる方たちがいる。コメントのやり取りをしている方たちが温かくて嬉しくて仕方ない。

 「読みたいペースで」を素直に実行している方たち。お互い時々揺れるけど、軸をぶれさせない。そこに安心して居られる。

 そんな風に信頼関係を築いていけばと思えている。

 本当はもう少しフォローしたい人たちがいる。でも私はフォローしている人の個性を把握しておきたい。それぞれの人柄を感じて、どんな背景があって、どんなことを感じたのか。少しでも知りたい。今は私のキャパシティがいっぱいいっぱいだ。この人数に慣れてきたら、また少し増やそうと思う。本当に少しずつ。

 そして、そんな方たちといつか会ってみたいと心から思っている。目的が自分の心からの気持ちと合致したら、楽しみたいとは思っている。

 始めてからの一年間は本当に探り探りで揺れに揺れた。でもようやくわかってきたここでの皆さんとの距離感。

 この記事で、うんと私を嫌う人もいるかもしれない。だけど、私は嫌われちゃうより、自分を消耗し、失う方が怖いです。


#エッセイ #note #ツイッター #つながらない選択  

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