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裏長屋の画伯

 裏長屋。まだそんな言葉が通じるような間口の狭い一つ屋根の家が住宅地のど真ん中にある。ここは秘境とも言われている。その秘境の長屋に磯崎画伯が住んでいる。ここが気に入ったのではなく、ここから出られないのだ。キャリアのわりには実績がなく、賞らしき賞も取ったことがない。ここから出られないのはそのためだが、出たいとも思っていないようだ。
「磯崎画伯のお宅でしょうか」
 狭い長屋暮らしとはいうものの部屋の奥には裏庭があり、そこで画伯はネギの根を植えているところだった。青ネギの残りだ。必ず根がしっかりあるものを買っている。
 二間ある部屋は全てアトリエ。そのため足の踏み場がないので、客を通すわけにはいかない。玄関の三和土に椅子を置き、そこで接客するようにしているが、その椅子、パイプ椅子で大型ゴミの日に出たもの。少しガタがあり、シーソーのようになる。
「絵を画いていただきたいのですが」
「何の」
「自由に」
「それはできない」
「注文はありません。自由に画かれて結構です」
「余計に難しい」
「はあ」
「私はカット屋でねえ。絵の使い道がはっきりしていなければ画けないのだよ」
「観賞用です」
「じゃ、まるで画家だね」
「そんな冗談を、画伯」
「いや、それはあだ名でね」
「あだ名?」
「ニックネームだよ」
「そうなんですか」
「社長というネックネームや、博士というニックネームあるだろう。それと同じ。仲間内だけの呼び名だろうけどね」
「じゃ、画伯は画家ではなかったのですか」
「私はデザイナーだ」
「はあ」
「イラストは画けない。つまり絵は画けないんだよ。だからベーシックデザイナーなんだよ。マッチのラベルのデザインが得意でねえ。チマチマしたものしか作れないよ」
「でも依頼人が是非とも油で画いてくれと」
「油絵の具もアクリル絵の具も持っていないよ。百均の子供用の水彩絵の具ならあるがね」
「はあ」
「しかし、画伯の絵を見た依頼者が」
「間違いじゃないの」
「磯崎さんでしょ」
「そうだよ」
「じゃ、やはり磯崎画伯だ」
「そう呼ばれることもあるけどね。皮肉だよ。冗談でそう呼ばれているだけ。しかし、その依頼人の方、何処で私のことを知ったのですかな」
「さあ、そこまでは知りません。磯崎画伯を探し出して、絵を依頼してこいと頼まれました」
「まあ、そんな凝った悪戯をする人もいないはずだから、その依頼人さん、勘違いしておられるのでしょうねえ」
「何とかなりませんか」
「引き受けろと」
「はい。画伯でしょ。絵描きさんでしょ」
「画くことは画くけど、下手でねえ。絵は素人以下だよ」
「油絵の具と筆一式は用意します」
「いやいや、水彩絵の具でも油絵風に画けますから、ご心配なく」
「じゃ、引き受けていただけますね」
「自由な絵というのが難しくて、条件が厳しいがね」
「一番条件がいいはずだと思うのですが」
「じゃ、本当に何でもいいの」
「はい、お願いします」
「それでだね」
「はいはい、ギャラですね」
「うん、まあそうだけど、高いと画かないよ」
「当然可能な限りお支払いします」
「だから、高いと駄目なんだ」
「はあ」
「高いと画けない」
「じゃ、安いと」
「画ける」
「考えておきます」
「考えることないでしょ。安く済むんだから」
「じゃ、いくらなら」
 画伯は指を一本立てた」
「十万ですね」
「千円」
「はっ」
「千円なら気楽に画ける」
「それでよろしいのですか」
「うん、いい」
 男が帰ったあと、さっと水彩絵の具をしぼり出し、水を加えないで、一気に書き上げた。
「終わった」
 この画伯、きっとプレッシャーに弱いのだろう。
 
   了

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