競争原理主義に生きるジパング日本における一考察論理

主題に至る背景
今回の記事の作成にあたっては今の日本の現行社会システムの総体としての観点から考察を取り計らいたいと思う。その経緯に至っては、紛れもなく日本は競争主義を崇拝、又は重視している世間の多くの人たちがいる事を筆者が感ずるために執筆するに至った。なぜ、日本の競争概念を重要視するのか?またその競争概念の無意識への浸透をすることにより、日本の子どもたち、また大人社会に与える影響についても具体的事案を例示して記述する次第である。それでは始めていこうか。

第一項 日本の競争主義の概念定義

先ずは日本の競争主義の概念定義から行うことにしよう。それの意義は「自分とそれ以外の他者との比較検討することでその勝敗を決する結果を創出する概念フレームワークである」とおくことにする。従って、この概念からして我々は常に他者との比較検討し優位性の有無について気に留める必要があるとの認識が可能である。この他者性への意識がけが自己のアイデンティティの喪失にも発展しかねないことを注意したい。だから、競争主義に生きる者は、社会からの自己の目を気にするということである。その競争概念を日本人は幼児の頃から無意識的にも植え付けられていることを述べ伝え二項に移ろう。

第二項 日本の競争主義事例の具体化
日本の競争主義に代表されるような事例をここでは取り上げることにし、如何にして日本が競争主義的価値を重んじているのかを論証してみることにしたい。①運動会の赤白組の対決、組による対抗戦の構造、②合唱コンクールのクラス対抗戦による競争構造化③企業間における利益争奪による資本主義社会④受験戦争による自己合格化のための競争主義といった4つ事例を取り上げ、競争原理の具体化を説明したい。
①運動会よる競争概念について、例えば早くて幼少期から運動会がありそこで徒競走を展開するだろう。その競争なる価値認識を幼い頃から無意識的にも植え付けることになろう。それにより他者との比較を行うように子供の頃から養育することになるだろうから、その影響が思春期、社会人になるに従って競争概念という見えないものを大切にしてしまうといった思考を生み出すものと想像する。そうなってしまっては常に周りの人の目を意識を重要視することになり自己の確立を保持することなんぞ出来やしないと考えるのもまた容易なことだろう。周りに合わせないといけないといった考え方を中心にしてしまう。自己愛からは程遠いもので日本人の総体性を他者に志向することではストレス社会にもなろう。依存傾向にも陥ることにもなろう。1番、2番、3番といったランク付けをするのだ、子供の時から。上位者は気持ちの良いものかもしれないが、逆に最下位の子どもはその分傷つくことになる。最下位だからこそ、努力しないといけないんだという考えを植え付けることにもなろうものなら、それは大きな落とし穴に入ることにもなりかねない。他者を蹴落とすために努力をすることを目的化してしまっては、人の生きる道理を分かつことなぞできやしない。競争原理社会によるこの徒競走といった運動会のイベントには教育する上で大きな弊害を生むだろうと想像する。赤と白との対決もまた、グループ間対決による他者志向意識を助長させる構造上と同義である。②合唱コンクールのクラス対抗戦についても、集団別による大会と称したバトルなのである。1番を目指そう、他よりも良いものを作り上げようと他者に志向させた概念の適用化を図りながら、それが無意識的に浸透していることに注意を払いたい。③企業間の利益争奪戦の資本主義社会システムなどは特に違いを強く見出す。先輩後輩からのタテ社会の本質を浮き彫りにし、(それは中学高校の部活動からすでに始まっていることだから、この概念もまた改める必要はあろうとは思うのだが)上司からのプレッシャーをかけさせられたりして、労働搾取の構造には特に競争原理は働いていようことと思う。④受験戦争による競争化もまた同様で、周りとの差別化を図り自分の目的達成のためには、自分が勝つことが目的とされそれに向けて努力をするシステム。以上の例からしてもお分かりのように、日本人は幼い頃から愛とはかけ離れた競争概念を植え込まされている事実に気付いてもらいたいと思う。


第三項日本の競争主義の浸透による日本民族への影響の考察
よって第二項から、競争概念が日本民族に与える影響というのは以下にまとめ上げよう。①自己優先主義の採用②他者性の排除意識→差別意識、村八分システムへの価値認識の芽生え③同一集団内のコミュニティ強化の意識といった影響が考えられようと思う。これらについても以下に説明したい。先ずは①において、これは先程の運動会や受験戦争にみるように、他者よりも我先こそはという価値観を優先させる、又はその可能性をはらむ考え方を自己優先主義と筆者は呼びたい。だから、これも他人を蹴落として自分が優位に立つという思想をうんでしまいかねない。そして②が他者性を排除する結果につながって来るが、自己のことを競争原理により優先させることで他者への思いやりを欠如させるベクトルに働きかける原因になろうかと思考する。結果として、自分ではない異質な者に対しての差別意識を生み出す、そして弱い者いじめから非人道的な思想を生み出し、攻撃性を強める者と弱める者とが出てきてしまうのだ。村八分システムだって、異質な者を追放する冷たいシステムではないか!そして③同一集団内のコミュニティ意識の強化としては、だからこそ仲間意識を強くするといったポジティブな見方をすることも可能だと思う。仲間意識を気にするがあまり、自分という自己を蔑ろにする傾向にあるのも日本人の良くある特質の一つだろう。結果論として、競争原理が日本人に働きかける影響はデメリットの要素が大きいだろうということを分析せしめた。


第四項日本社会と日本人の今後の課題
だからこそ我々はこの競争原理という行き過ぎた思想を無意識にあるものを根底からして変容していかなければなるまい。その方策として掲げるものを次に提示したい。①分裂意識の排除の徹底化②義務教育にキリスト教の教えを道徳に活用③愛と許しの教えの強化といった3つの課題解決策を提示する。先ずは①からみよう。日本の競争主義の考えでは明らかに違いを明確化することに最大の特質があることは明白のことのゆえに、この分裂意識の排除を行う必要があろう。イジメ、差別意識、弱者排除の考えはこの分裂という概念から創出されているからだ。だから、我々はもとを辿れば祖先は行き着く先は一つにあるという学びを子供の時から分かつ必要があると認識する。なぜならばこの世の誕生は宇宙の創造という一つの事象から生まれたのであり、何億年もの歳月をかけて我々の生命体の誕生までに至らしめたのだから。この宇宙史を突き詰めて考え出すと、我々の存在についての考えに行き着くだろう。そこで我々の死についての問いに向き合うことになろう。それ以上話すと競争主義の思想とはズレるのでもとに戻すが、我々は全てにおいて同一の者にある、私達人類は全て家族なのであるという意識を持つことが大切である事を理解したい。次に②キリスト教の教えを義務教育に導入することで、タテ社会のシステムを変えることを目的とする。つまりはヒトはみな平等にあって、争いでは何ら生まれることがないことを示唆することを目的としたいからである。競争主義だけではなくフラットな関係性の構築を図るキッカケとなるはずである。そしてキリスト教の教えからの③愛と許しを教えることで日本人の固定観念としてある勧善懲悪を無くすことを目的とできればと思う。

終いに
よって以上から日本の競争主義の概念を具体的事例を元にして取り上げ、そこからの解決策までを述べることに努めたわけであるが、日本の現行制度上では既得権益層の存在もあることより変わることが難しいのが現状にあろう。それを変えるには日本国民が一人ひとり気づいて政治に関心をもち、皆の意識に働きかけることが最善の策だと私は考えている。皆が競争主義から愛へ価値観のパラダイムシフトを起こさないとこの国は停滞の一途をたどることを述べ伝え結びの言葉としたい。

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