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おめでとう、全てのシンジ君~『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

※『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の感想記事です。考察とかではありません。
※『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について多くのネタバレを含みます。これから見る予定の方は読まないことをおすすめします。
※何となくどういうアニメか知ってるけど映画は見るつもりないよ、という方は大丈夫です。是非読んでください。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観た。上映館数・回数も物凄いし、巷ではたっっくさんの考察・感想が出回っているようだ。たしかに、観たからには一言いや二言三言いいたくなる映画だ。
僕は最初に観たときはラスト30分くらい泣きっぱなしで、でも自分がなんで泣いてたかはわからず、いまひとつ見終わった後の感情が整理できなかった。先ほど2回目を観てきた。同じように感動したし、その言い知れぬ感動の理由もなんとなく分かってきた。と、同時にこうも思った。
「あれ、おれってこんなにエヴァ好きだったっけ??」


1985年生まれなのでエヴァ直撃世代より若干下である(放映当時10歳)。
サブカルに触れるようになった中学時代、エヴァは既にもう”日本アニメの金字塔にして超問題作”という評価が固まり切ってる後だった。僕は内向的な、いわゆるオタクタイプの少年だったと思うが、アニメやマンガにドップリというわけではなかった(いまだに一番好きな漫画が『今日から俺は!』だというところから分かってもらえると思う)。
たまたま手に取ったコミックスで初めてエヴァに触れ、人並みに興味を持ち、人並みにレンタルビデオでアニメを観た。人並みに”謎本”とかも読んでいた。アニメ自体よりそっちの方が面白いと思った記憶がある。
最終回についてもなんとなく知っていたので、笑いこそすれ驚きはしなかった。基礎教養としてとりあえず観た、というテンションだった。そう、やっぱりそんなにエヴァにのめりこんではいなかったのだ。
綾波派でもアスカ派でもなく、当時は小向美奈子派だった。


ちなみに周りの友達ともエヴァの話をした覚えはない。1個上の部活の先輩コウノさんが「アニメージュ」を毎号買ってるオタクだったので、なんとな~く「エヴァ見てるっす」といったら「まああれはリアルタイムで追ってこそだよね。後から見ても当時の衝撃は味わえないよ。そもそも庵野の手法は…」(早口)と今なら興味が持てるであろう長話でマウンティングされた記憶があるくらいだ。


ただ、ひとつだけもの凄く思い入れのある話があった。1997年公開の旧劇場版ラスト『まごころを、君に』(通称『まご君』)だ。
主人公シンジが最後の最後で自分を拒絶したアスカの首を絞めるところからはじまるサードインパクト。物凄い情報量の映像と美しい音楽(『Komm, susser Tod~甘き死よ、来たれ』)にのせて描かれる禍々しい世界崩壊の場面に、常々「地球滅びろ」と思っていた思春期の青い心が震えた。
(ちなみに、地球が滅びて欲しい理由としては次の日の代数の課題が終わらないから、学校に男子しかいないから、等があった)

今から考えると、昔の人が『博士の異常な愛情』とか『2001年宇宙の旅』とかを観たのに近い衝撃だったんだと思う。逆にその後上記二作を観たときは「はいはい、まあうちらはこういう表現エヴァで体験済みなんで」と特に何とも思わなかった。
ダビングしたビデオを繰り返し見て、重すぎて授業に持っていくことをやめていた英和辞典を使って『甘き死よ、来たれ』の訳詞を自分で作って鳥肌を立ててたりした。

終わり方にショックを受けたり、「突き放された」と感じた人もいたかもしれないが、僕はあそこに込められているかもしれない悪意も含め「ブラボー!!ぶっ壊してくれてありがとうエヴァンゲリオン!」と思っていた。(個人の感想です)

要はエヴァ自体にはそんなに思い入れがなかったものの、『まご君』に関しては一本の独立した作品として大好きだった、という距離感である。


さあ、そこにきての『シンエヴァ』だ。あの頃「地球滅びろ」と世界を呪っていた14歳の少年は36歳の中年になった。22歳以降の自分の人生はないものだと20歳くらいまで本気で思っていたが、今はどうやら、運が良ければあと数十年人生が続くらしいことも分かっている。この先やりたいこともあるので、できれば地球は滅びて欲しくないし、周りの人には幸せでいて欲しいと思っている。大人になったわけだ。

映画前半、あの頃の自分のように世を憎みいじけ散らすシンジ君を見て「出ました!よっ!伝統芸!」⇒「いつもより多く膝を抱えております!」⇒「おい、シャレになんねえよ…いつまでウジウジしてんだよ」とイラついた(映画を観た多くの人が抱く感想でしょうね)。
と同時にやっぱりこいつの気持ちわからないでもないな、とも思ってしまった。
親とケンカしながら無理矢理連れていかれた親戚の家で、ああいう態度とったことがあるなーとか。あれは確かに過去の自分の姿だし、現在の自分はそれと地続きなんだと思った。別の人間になったわけじゃない。

2時間半の映画なのでシンジ君はサクサクッと喪失を経験し傷を負い、大人になることを余儀なくされる。僕を含め多くの視聴者も、程度の差はあれど、この20ウン年の間に色んなものを失って大人になったはずだ(3.11は言わずもがな)。

多くの人が涙したであろう碇ゲンドウの「大人になったな」というセリフ。自分はあれを「成長したな」という言葉通りの意味よりは、「お前あんなにいじけながらも、とりあえずここまでよく生きてきたな」という意味に受け取った。テレビ版の最終話のごとく、まさに「おめでとう」と言われてるようだ、と勝手に感じた。

※ここで脱線するけどどうしても言っておきたいこと。新劇場版『Q』で碇ゲンドウがX-MENのサイクロプスみたいな超かっこいいメガネで登場したとき、息子シンジは何を思ったんだろうか。「父さん…ということでいいの?」「父さん…いくら14年たってるとはいえ、そのファッションの変化は吞み込みづらいよ…」と心の中で言っただろうか。
逆に、今作でゲンドウにすこし感情移入できた身としては、あの姿で息子の前に現れるとき、ゲンドウもちょっとドキドキしてたのかしら…(まあ外したら下はヤベエことになってそうだけど)と考えてしまった。


閑話休題。ゲンドウとシンジの対話から始まるラストの展開は、映像表現も含めやっぱり僕が20年前に熱狂した最終回『まごころを、君に』とほぼ同じ結末に見えた(しつこいけど”個人的には”ね!)。
最初の話に戻るけど、だからエヴァへの思い入れが薄いくせに、こんなに『シンエヴァ』にガツンと喰らってしまったわけだ。
”It all returns to nothing”(全て無にかえっていく)と繰り返し歌われる通り、無となっていくエヴァの世界にシンジとアスカが残りそのまま閉じ込められた『まご君』。『シンエヴァ』でも同様にエヴァの世界は無になっていくが、違うのはシンジがそこから抜け出すというところだ。

同じく『甘き死よ、来たれ』の歌詞に”I know we can’t forget the past”(私達は過去を忘れられない)とある。
過去を忘れられず失ったものに執着し続けるなら、ゲンドウのように狂うしかない。
そうではなく、過去は忘れられないけど同時に未来を作ろうとする意志は持てるっしょ、というメッセージを、僕は『シンエヴァ』ひいては『新世紀エヴァンゲリオン』25年の結論として受け取った。
あんなにねじ曲がった作品がここまでまっすぐなメッセージを放ってくるなんて!ってとこで、作品に対してこちらからも「おめでとう、大人になったな」と言いたくなった(何様)。まさに「おめでとう」の応酬、これぞ伏線回収。
てなわけでまだまだ整理できてないところはあるけど、いろいろひっくるめて最高でした!!もう一回くらい行こうかしら。

ただ、怖いことがひとつ。
『シンエヴァ』見たその日の夜、なぜか衝動的に『まご君』見返して妙にしっくりきてる自分がいたんだよな…。「やっぱこうでなくちゃー!」みたいな…。
結局、認めたくないがわが心の中のシンジ君はまだ14歳のままなのかもしれない。気持ち悪い。

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