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あなたは、あなたであれ。

1月にある違和感に気づいてから、それをひとつひとつ自分なりに外し
紆余曲折、そして上昇下降を繰り返してきた。しばしの間、私のなかに「歌」が消えた3か月。少しその様子を自分のなかから見守ってきて。4/19のてんびん座満月ごろからわたし自身も少しずつ、新しいフェーズに向かっている。

新しいフェーズというのは「新しい見たことないもの」ではなく、元々の自分の持つものや認知していたものなどが、新しい表現や新しい翻訳方法を得て、目の前のものが新しく見えたり、聴こえてきたりするようなこと。

この1週間は特に、朝起きて寝るまでの間に起こる果てしないメタモルフォーゼがあって、それを自分に上書きしていくのが精いっぱいだった。
そのたびに、言葉が大量に生まれたり、音が大量に流れ込んできて「ああ、この時間を生きられて良かった」と振り返っている、今日があった。

これから書くことも、いままでも書いてきたつもりでも、たぶん自分でも半分言葉になりきれてなかったものも沢山あったと思うので、忘れないよう
こちらに記録しておこうと思う。

今朝、インド古典音楽の兄弟子さんでもある、バンスリー奏者の寺原太郎さんがTwitterに書いていた言葉。

‘‘音階や音の組み合わせなんかじゃなくて、音の佇まい、その繊細な取り扱いだけでこれほどのことができる。僕の先生がやっているのもそういう音楽。僕がそれに憧れて、それを目指して進んできた、それでも未だに辿りつけない、そういう音楽。向こう岸。見えているのに渡れない。そんな場所。— taro terahara (@srgmtaro) 2019年4月25日‘‘

この言葉を読んだとき、これまでよく自分が「尋ねられてきた事」について
少し丁寧に?語れる言葉が出てきた。それが以下。Twitterにわけて書いたのでちょっと長いけれど。

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「音楽」を魅せてくれた先輩は先生ふくめて「指南」だなと想う。よく誰に教えてもらったのかとか指導受けたのか聴かれることがあるけれど、「指導」というより「指南」の感覚。星に向かっていくような感じ。ひっぱられるのではなく、歩み向かう感じ。

「その人に習えば私もそのようになれるのか」的に「指導者」について聞かれることがあるが、(なぜかクリスタルボウルのパフォーマンスで聴かれることが多い)私は指導者のコピーではないし、誰かのコピーではなく、私の哲学の中に生き、私の哲学の中で選んだことを行うだけだ。

例えばクリスタルボウルを演奏していて、その先の憧れの星は庭に咲くひまわりの存在だったりするし、やっていることの先に憧れの星はあっても、私は私にしかならないので、その質問が理解できないの。それは命の抜け落ちた質問だからかもしれない。あなたの哲学ではない質問だからかもしれない。

以前、「質問」についてはアメブロにも書きました。(「質問に「答え」ない。」)

楽器や種類を超えて「音楽」を表してる姿に、ああこの方から「オンガク」という星のひかりに触れたいと思ってレッスンに歩みに行くことになったのが、太郎さんがTwitterで書いている同じ「先生」=アミット先生で。先生がやってる音楽がたまたまインド古典だった。シタールプレイヤーの先生から歌を頂いた。歌は全ての音楽の源であり世界を創るもの。

私の唯一の憧れは、地球。そして中に在るひかり。アミット先生の存在はそれに並ぶ。クラシック音楽を学んできた時代には、出会え無かった存在。生きてる間に探していたひかりに出会えて、よかったと思う方。

心の師。

私の星。

でなければ、全く知らない世界の音楽に触れることも無かったわけで。インド古典の歌を通じて、昔より向上したのは、リズムや拍だったり。あのリズムサイクルを超えて韻を踏むようなことを歌わなければ、他の音楽の旋律もリズムも、未知の世界のまま死ぬところだった。

最近、「平成最後」という言葉がよく目につき、平成最後に駆け込みで何かしたいか?と自分に聴いてみた。特別何かしたいことはないけれど、今は
このメタモルフォーゼが起こる中で、平成最初に在ったであろう自分らしい何か清々しい気持ちが蘇っているので、それを眺めて静かに過ごしたい、と自分が思った。

お誕生月の牡牛座月間だし。

この気持ちを令和に連れて行きたいし。

平成さいしょの私が想像もしなかった大人の世界に平成最後の私はいるけれど、平成さいしょの私が、今の私の先輩の気がする。あのときの私もわたし。不思議。

平成は、私の前を走らなきゃならないときもあれば、私の後を引きずられていくときもあった。令和は私の前も後ろもなく、私のなかで私がひろがればいい。わたしはここからはじまり。いつも、ここがはじまりだ。

人生のなかで、自分の生きる世界から多様な星の光を眺めて、その美しさを感動を、自分をもってまた誰かに語るように表れていくのは、音楽からでも音楽からじゃなくても、映画でも本でも自然でも、友人との語らいの中にも在る。

今日という雨の音にも、雨の冷たさの中にも在る。それは今日あなたの人生を変えるほどの力がある。それを信じる?信じない?世界の垣根を外すほうが、先の質問の存在はもっと大きな意味を持つよ。

「何があなたをそのようにさせているのか」、という質問が一番理解できる。私の「先」に居るもののことより、私やあなたがどのようにこの地球で創られていったのだろうかということ。私の興味もそこ。

あなたの光のはじまりを観たいの。
何があなたを動かすのかを。

私の表れは、私が見た光を私の中で蜜にするから。あなたの表れは、あなたの見たひかりをあなたの中で蜜にしているから。

私は私でしかないし、あなたはあなたでしかない。

私はあなたになれないし、あなたは私になれない。

だから世界は存在していて、お互いの蜜を光として生きる循環が存在してる。

それが私の持つ、地球や宇宙との付き合い方。
音を通して表れることも
生きることを通して泣き笑うことも。

あなたはあなたであれ。

私は私の哲学を
あなたはあなたの哲学をもちなさい。

誰かの信じているものではなく
あなたが信じているものを
あなたが見ているものを
あなたの真ん中に置くことを。

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