ちりめん浮世絵(クレポン)が造られたのはいつからか(妹尾コレクションと川上コレクションから)
ちりめん浮世絵(クレポン)は浮世絵界では「江戸時代の浮世絵を明治時代に後版が造られ、外国人に土産として造られた玩具だ」と言われ続けられていました。
それ故、普通の浮世絵に比べれば価値がないと言われていました。
だから、ちりめん浮世絵の展示会など全くなかったのですが、妹尾啓司氏が2006年に頼山陽史跡資料館において、大規模なちりめん浮世絵展を開催し図録も発行しました(展示の企画は広島県立歴史博物館の主任学芸員、荒木清二氏が、図録の編集は広島県立歴史博物館の主任学芸員の花本哲志氏がしました)。
図録の中で妹尾氏は「この秘められた内容は(ちりめん浮世絵のこと)観方によっては未知の芸術の世界における版画の神髄を発見することができるように思えるものがあります。これについては単なる工芸品・民芸品として評価する向もありますが、丹念に観察して頂ければ浮世絵版画以上に優れた版画芸術作品として評価できるように考えられるのではないかと、ここに問題提議してみたいと思うのです」と書いています。
この展示会は、中国新聞の後援でテレビなどでも宣伝したけれど、とくに反響も少なく、忸怩たる思いもあったようです。
妹尾氏は、浮世絵関係者はちりめん絵に興味をあまり示さないと残念がられていたそうです。
なぜ、ちりめん浮世絵は浮世絵関係者に興味を持たれていないのでしょうか?
ちりめん浮世絵に言及している二人の説をここに載せます。
吉田映二著 『浮世絵辞典』 画文堂 より
【これは普通に摺り上げた版画を棒に巻いて揉んで縮めたもので、画面一面を細かい縮緬皺としたもので、大判錦でも中判位の大きさに縮まっている。これは版画としての鑑賞でなく、ひとつの工芸品または玩具であって、色調描線もまったく別物となってしまう。】
【これは天保(1830年代)以後行われたもので、 草双紙の表紙に用いられたものがあるが、一枚絵にもしばしば用いられ、役者の大首絵や広重の「江戸百景」にも縮緬絵がある。 明治時代になると、外人がこれを好むことから輸出向きに製作したものも生じた。】
【ただし、この時代には手で揉んだ原始的な手法ではなく、機械を用いたらしく、その縮緬皺も細かいけれど一様で、なんらの面白味も味わいもないものである】
青木千代麿著 『ちりめん絵とちりめん本』 紙の博物館 より
【発祥は文化文政頃と伝えられているが、確かなことはまだ調べがついていない。
ちりめん絵や殊にちりめん本は、幕末から明治にかけて来朝した外人達に珍しがられた。
機を見るに敏な商人は、わが国のお伽話しや風俗等を英訳し、これをちりめん本と称し売り出した。この異国の溢れた本は外人達の土産物として好評を博した】
この二人の説が浮世絵界のちりめん浮世絵に対しての評価なのです。
それ故、妹尾氏が嘆くように「浮世絵関係者はちりめん絵に興味をあまり示さない」となっていたのです。
実はこの二人の説は大きな間違いだったのです。
まず、ちりめん浮世絵は天保の時代から作られたと吉田氏は言います。
青木氏は文化文政の頃だと述べてます。
妹尾氏は天保の頃と述べています。
この初めに造られたのはいつなのか? については後に書いていきます。
次に明治時代に外国人用に造られた玩具だと述べてます。
外国人用に造られたのなら明治時代ですから、江戸時代に造られたちりめん浮世絵とは用途が違います。
まさか江戸時代に造られたのが外国人用のお土産だとは誰も言わないでしょう。
そこで、この謎を解くのに『明治時代に新たに造った版で浮世絵を摺り、それでちりめん浮世絵を造った』という説が浮世絵界では常識になっていたのです。
これが大きな間違いの一つです。
浮世絵は木版画なので、木目が出る浮世絵があります。
有名なのは富岳三十六景の『凱風快晴』です。
この木目で江戸時代のオリジナルなのか復刻版なのかがわかります。
この浮世絵は1万枚摺られたと言われていますから、後の方の摺りはこの木目がかすかにしか出ていません。
逆に言うとこの木目でどれくらい後に摺られたのかが分かるのです。
復刻版の『凱風快晴』は下です。
綺麗ですけど木目が全くありません。
昔は、浮世絵界では「浮世絵は200度(200枚)摺ると版がすり減ってしまいすり減ってくると版を彫りなおした」と言われていました。
ですから初めの200枚を初版初摺りと言い、すり減って版を変えるまでを初版後摺りといい、版を彫りなおすと後版初摺り、その後は後版後摺りと言っていました。
それ故、初版初摺りはとても価値が高いとなったのです。
しかし現在ではそのようなことにはなっていません。
初めの版で1万枚くらい摺られていたようだ、となってきましたので、よほどの理由がない限り後版はないのです。
後版ができたとすれば、それは復刻版ということになります。
だから今は後版という言い方はなくなっています。
初摺りか後摺りかは色変わりしていれば後摺りとなりますし、摺りが悪ければやはり後摺りでしょう。
それではちりめん浮世絵は明治時代に造られた復刻版なのでしょうか。
下に木目がある大判浮世絵とちりめん浮世絵を載せます。
これを見れば同じ版から摺られたと分かるでしょう。
つまり、江戸時代にちゃんと作られたちりめん浮世絵だということです。
江戸時代のちりめん浮世絵を見れば玩具などという表現はできないはずです。
妹尾氏の言う通り「この秘められた内容は(ちりめん浮世絵のこと)観方によっては未知の芸術の世界における版画の神髄を発見することができるように思えるものがあります……丹念に観察して頂ければ浮世絵版画以上に優れた版画芸術作品として評価できるように考えられる」が正解なのです。
実際、パリに渡ったちりめん浮世絵(クレポン)をパリの前衛画家たちはどのようにとらえていたでしょうか?
下に載せます。
画家ではないのですが、浮世絵の最大の理解者で作家、評論家のゴンクール兄弟は、1861年6月8日の『日記』に、パリの「ポルト・シノワーズ」で、日本のデッサンを手に入れたと書いています。
【織物と見紛うような紙に印刷された日本のデッサン(クレポン)を手に入れた[......]。私は、これまでに、これほどまでに非凡で、幻想的で、見事に詩的な芸術を見たことがなかった】
ゴングール兄弟は、浮世絵をヨーロッパで紹介したさきがけの人物で、後に浮世絵商の林忠正の協力を得て、兄のエドモンが1891 年『歌麿・青楼の家』、次に1896年『北斎・18 世紀の日本美術』を出版した、フランスの浮世絵界では大有名な人物ですし、フランスのゴングール賞と言えば権威ある賞で、ゴングールの死後の遺言で、ゴングールの遺産(ゴングールの死後、ゴングールが収集した浮世絵の遺産オークションで作られたお金)でその賞を作った偉大な人です。
その人物がクレポン(ちりめん浮世絵)に対して『非凡で、幻想的で、見事に詩的な芸術』と評しているのです。
ゴングール兄弟がクレポンを買っていた時期に、ウィリアム・マイケルもクレポンを買いました。
彼はイギリスの美術評論家でラファエル前派の一人です。
また兄(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ)はラファエル前派の初めの三人の一人で、画家であり詩人でもあります。
【ウィリアム・マイケルは1865年のドソワ再訪から1か月後の6月24日に別の日本店で「ちりめんの小さな版画(クレポン)」を買い求めた。
カプシーヌ大通り7番地の日本店に行って、クレープ(ちりめん)の小さな版画をかなりたくさん購入した。
ホイッスラーはちりめんの版画の精選品をもっているが、その傑作の何点かをいまや手放すことになるだろう】
このようにウィリアム・マイケルとホイッスラーはちりめん浮世絵を買い集めていたようです。
そしてちりめん浮世絵(クレポン)と言えばファン・ゴッホたち色彩画家が愛していました。
マチスは『画家のノート』の中で下記のように書いています。
【「色彩はそれ自身で存在し、特有の美を具えています。そのことを私たちに啓示してくれたのはド・セーヌ街で何スーかで買っていた日本の縮緬絵(クレポン)です 。
(中略)ファン・ ゴッホも縮緬画には夢中になっていたでしょう。ひとたび日本の縮緬画によって目の曇りを拭い清められた私は本当に色彩をその感情表現力のゆえに受け入れることができるようになったのです」(A rtPresent, no2, 1947) 】
そして、美術批評家から「日本かぶれのナビ」と言われた ピエール・ボナールも1890年(ファン・ゴッホが自殺した年)、国立美術学校で開催された「日本の版画展」に感銘を受け、日本美術に傾倒し、クレポンを買い集めるようになるのです(ビングが開いた日本の版画展にクレポンも展示されていたのでしょう。フィンセントはピングの店でクレポンを買っていましたから)。
色彩画家の代表的な画家、ファン・ゴッホ、ボナール、マチスはクレポンに大きな影響を受けました。
ファン・ゴッホ美術館にはクレポン(ちりめん浮世絵)が19枚(2枚はクレープの千代紙)があります。
ファン・ゴッホ美術館では、このクレポンが痛むのを恐れ展示はしていなかったのですが、数年前に特別展で展示し、その後ネットで見られるようにしました。
これにより、初めてクレポンを見れたファン・ゴッホ研究者が多数出ました。
ファン・ゴッホの手紙のアルル編ではcrepons(クレポン)という文字が25回も出て、なおかつ重要なことばかり書いてあったのです。
それは、クレポンを油彩画で描きたいとか油彩画で描けたというよなことも含まれています。
つまり、ファン・ゴッホがアルルで描いた絵のほとんどはクレポンが下地になっていたのです。
ファン・ゴッホの絵がアルルから変化し評価されたのは有名です。
その変化の原因がクレポンだったのです。
書簡555 707
いかにもぼくらはあのオランダ人たちのように額縁つきのタブローを作ってはいないが、それでもきみとぼくとは、クレポン【日本の版画】のようなタブローをやはり作っているんだ。ない袖は振れないのだから、それで我慢しよう。
(French)
Vincent Vrai, si nous ne produisons pas des tableaux à cadres comme ces Hollandais, toi et moi, nous fabriquons tout de même des tableaux comme les crepons et restons là-dedans sans plus.
書簡554 705
ぼくは明日は全日この絵にかかるが、構想はこのとおり非常に単純なものだ。影や投影される部分は取除いて、クレポン【日本の版画】のように平たい小ざっぱりとした色面になっている。この絵はたとえば「タラスコンの乗合馬車」や「夜のカフェ」といい対象になるだろう。
(French)
J’y travaillerai encore toute la journée demain mais tu vois comme la conception est simple.– Les ombres et ombres portées sont suprimées, c’est
coloré à teintes plates et franches comme les crepons.
Cela va contraster avec par exemple la dilligence de
Tarascon et le café de nuit.
そしてファン・ゴッホが開いたクレポンの展示会でクレポンを見たベルナールとアンクタンがクロワゾニスムを打ち立てるのです
『ポン・タヴェン,ナビ派と日本』 稲賀繁美 から抜粋
【エミール・ベルナール自身が1903年に公表するところによれば「我々(ベルナールとアンクタン)は日本のクレポン縮緬絵の研究を通じて単純性へと行きつく。我々はクロワゾニスムを創始する(1886)」(「メルキュール・ド・フランス』誌1903年12 月号)。】
稲賀氏はベルナールとアンクタンのクロワゾニスムはクレポンの研究の成果だと書いているのです。
このようにパリではクレポンがとても大事にされ影響を与えたのです。
ところがクレポン研究が全くなされていません。
その大きな理由がクレポンの現存数が極端に少ないから、クレポンを研究者が見たことがないからです。
クレポンは大判浮世絵に対し500枚~1000枚に1枚しかないと言われています。
そしてクレポン研究がされていないもう一つの理由がcreponをJapanese prints(日本の版画)と誤訳されてしまい、creponは浮世絵のことなのだ、と勘違いしたままになっているのです。
日本のファン・ゴッホ研究家も、昔はその誤訳された英訳を基にした研究をしたためにクレポンの存在を知らず、creponという文字を見つけたとしても、ヨーロッパ人は浮世絵の別名をcreponと呼んでいたのだろうと、これも勘違いしてちりめん浮世絵の研究を全くしていないのです。
そしてなぜそうなった大きな理由は前記したようにちりめん浮世絵がほとんどなかったので見る機会がなかったのです。
妹尾啓司氏が開いたちりめん浮世絵の展示には127点のちりめん浮世絵が展示されたそうです。
127点のちりめん浮世絵を集めるのは至難の業です。
妹尾氏は、昭和四十八年発行の著書で浮世絵にふれています。
浮世絵収集していた時にちりめん浮世絵に接し、興味を持ち集めて行ったのでしょう。
折に触れ浮世絵を売っている店に行きコツコツと集めたと思いがちですが、それだけでこれだけの大量のちりめん浮世絵は集められません。
おそらく、なじみの浮世絵商にちりめん浮世絵が出たら買うから集めてくれと頼んだのだと思います。
以外と浮世絵の世界は狭く、一人の浮世絵商に頼めば世界中の浮世絵商に連絡が行き、ちりめん浮世絵を持っていれる浮世絵商から手に入れることができるのです。
もちろん世界だと時間はかかるし、ちりめん浮世絵自体が高額ではないため画帖のようにたくさんあるのしか日本に来なかったと思います。
それでも日本の浮世絵商のところにはその情報が伝わったでしょうから1枚でも集まったはずです。
ただ、ちりめん浮世絵が出る場合は、コレクターからなので1枚というより数枚から数十枚だったと思います。
実際、妹尾コレクションを見ると『江戸の花名勝会』シリーズが31枚、喜斎立祥(二代広重)の『東海道53駅』が20枚(大判に中判が2枚あるので点数は38点)、諸国名所百景4枚、当櫓看板揃が6枚、俳優見立十二支が3枚、開花人情鏡が6枚、開花三十六会席が6枚、東京花名所4枚、小林清親4枚という風に同じコンディションなので、これらは同じコレクターから浮世絵商に渡りそれを買ったのだと思います。
これ以外にも2枚同じシリーズとか、シリーズは違っても同じコレクターから出たと推測できるものばかりで、1枚だけ買ったという方がとても珍しくなっています。
おそらく買った回数は20回前後だと思われます。
何十年も浮世絵を買い集め20回しか買う機会がなかったということです。
それほどちりめん浮世絵は珍しいのです。
ちりめん浮世絵はいつごろから造られたか?
初めに戻りまして、ちりめん浮世絵がいつごろ造られたのか推理をします。吉田氏は天保の時代から作られたと言い、青木氏は文化文政の頃だと述べて、妹尾氏は天保の頃と述べています。
この初めに造られたのはいつなのか?
吉田氏は「これは天保(1830年代」と言い切っていますが、おそらく天保の浮世絵のちりめん浮世絵を見たのでしょう。
同じく妹尾氏も天保の頃だと述べていますが、妹尾氏の根拠はご自分のコレクションの中に英泉の美人画や朝櫻楼国芳の美人画があったからだと思います。
妹尾氏はちりめん浮世絵が生まれた時期は天保の頃と言う一方で、ちりめんになっている浮世絵が出版されたのは天保の頃からのがあるが、それがちりめんに加工されたのが同じ時代とは限らないので慎重に研究する必要があると述べています。
これは妹尾氏の言う通りで出版された時とちりめんに加工された時期は大きく違うこともあるのです。
私のコレクションから推理すると、ちりめん浮世絵の良いものは1850年代からだと思います。
下に私のコレクションを並べました。
この中で①が良いちりめん浮世絵で、このサイズのちりめん浮世絵が一番多くあります。
同じ絵柄の『深川洲崎十万坪』が大きさが違うのがあります。
同じ名所江戸百景の 『はねたのわたし 辨天の社』は大きな『深川洲崎十万坪』よりもう一回り大きなサイズです。
サイズが違うということは、これは同じところで造られたのではないと言えるし、もし同じところで造られたのなら時代が違うとなります。
①が標準のサイズとするとそれより大きなちりめん浮世絵は造られた時代は違っていると想像されるのですが、大きなサイズが造られた時期は2回くらいあったように思えます。
その時期の初めは1840年代、天保の時代です。
上の写真を見ればすべて①よりも大きなサイズです。
そして、真中の右2枚以外、時代が天保かそれ以前です。
しかし、ここには復刻版をちりめんにした可能性の物もあります。
復刻版なら明治の中頃になります。
そして、明治の中頃も大きなサイズが世に出回っているのです。
ここでもう一度青木氏の文言を載せます。
『発祥は文化文政頃と伝えられているが、確かなことはまだ調べがついていない。
ちりめん絵や殊にちりめん本は、幕末から明治にかけて来朝した外人達に珍しがられた。』
ここで、発祥は文化文政の頃と伝えられている、と記されているのですが、これは「許多脚色帖」から来ているのですが、青木氏はそこまでご存じなかったのでしょう。「許多脚色帖」には縮緬絵が貼ってあり、制昨年が文化文政なのです。
初めに書いた「江戸時代の浮世絵を明治時代に後版が造られ、外国人に土産として造られた玩具だ」と浮世絵商が言っていました。
浮世絵商が生まれたのは明治10年代です。
つまり江戸時代のことは分からないのです。
浮世絵商が生まれたきっかけは、夜店に外国人が買いに来てそれが大人気となってからです。
明治12~13年の頃(1879年~1880年)、に外国人でベンケイさんと言われている人が錦絵を買いに夜店に来ました。
ベンケイさんとはフランシス・ブリンクリーのことで、ブリンクリーが言いづらく、ベンケイと呼ばれていました。
そのベンケイさんが歌麿を買い占めたのが浮世絵高騰の始まりです。
それまで古い浮世絵は人気がありませんでした。
1枚1銭で売っていたその価格は新品の浮世絵の価格と変わらないので、それなら中古品より新品が良いや、となり中古品の浮世絵は人気がなかったのです。
浮世絵がパリに渡ったのは、黒船により横浜港が開港となったので、そこから幕末の浮世絵と横浜絵が渡っていきました。
有名なのはドゥソワ夫妻の店で、そこに並んだ浮世絵をマネを始めとする後の印象派の画家たちが買い、彼らの絵を大きく変え絵画の革命を起こしました。
値段は2000~4500円(2~4.5フラン)くらいだったようです。
次にパリ万博が行われた1867年から明治維新後の1870年代にパリのデパートなどにかなり安く浮世絵が売られ、ガラクタ市では100円(0.1フラン)の値段で売られていました。
そして最後がこの1880年代です。
中古の浮世絵は人気がなく、そのほとんどは屑屋の建場から千住の紙漉場に持っていって窯うでにしてしまうのです。
つまり、リサイクルして再生品になっていたのです。
明治維新後、古美術、骨とう品は全く人気が無くなり骨董品の店には山と積まれていたので浮世絵なんて骨董品屋は相手にしなくて屑屋が持って行ってたのです。
その屑屋から中古の浮世絵を安く買い、10倍以上の値段で夜店で細々と売る人も出てきたそうなのです。
職にあぶれた人が、お金のかからない古本や浮世絵を屑屋で買えば簡単に商売ができたのですが、バイト程度の感覚でやるしかなく、とても本業としての売り上げは無理だったのです。
そこに、お雇い外国人が浮世絵を買い始めると、慌てて屑屋に浮世絵を買いに行き、これによりたくさんの浮世絵がかまゆでから逃れたのでした。
ベンケイさんは歌麿を買い占めたので歌麿が無くなってしまい、それなら新たに復刻して摺ればよいと考え、ここに復刻版が世に出始めるのです。
但し、それは復刻版と称してはいなかったので偽物でした。
復刻版を造るとそれなりのお金がかかります。
それより古くなって売り出されている版木を買い、それで浮世絵を摺った方が良いと考えるものが出始めました。
1880年代になると外国人がお土産のために浮世絵を買い始めたので、安く売るために大量生産を始めたのです。
ところが古い版木ですから摺りは良くありませんし、金をかけないから安い和紙に安いインク、それに版も少なくして造ったものですから酷い浮世絵が生まれました。
酷い浮世絵、粗悪な浮世絵だと、安くても売れ残ります。
そこで、売れ残りの浮世絵をちりめんにして売り出そうとします。
ちりめんにするにはそれなりの工賃がかかります。
そこでこれも安く上げようとして、ほとんど素人がちりめんを造ったので摺りも紙も悪くて、ちりめんのしわもひどいちりめん浮世絵が生まれました。
このちりめん浮世絵もサイズが大きいのです。
粗悪なちりめん浮世絵☟
そして、紙をちりめんにした千代紙も外国人のお土産の玩具として造られました。
これはパリに渡るとクレープと呼ばれました。
ファン・ゴッホが描いたタンギー爺さんの後ろに飾られてある浮世絵の左下はこのちりめんの千代紙です。
またファン・ゴッホ美術館所蔵のクレポン19枚の内2枚はクレープです。
このちりめん千代紙や粗悪なちりめん浮世絵が生まれた時期と浮世絵商が生まれた時期が同じなので、ちりめん浮世絵はちりめん千代紙か粗悪なちりめん浮世絵だと浮世絵商たちには定着してしまい、それが現在まで続いているちりめん浮世絵の評価になっているのです。
これからの研究も必要ですが、これらのことから判断して、22.0×16.0サイズのちりめん浮世絵は妹尾氏の言う「この秘められた内容は(ちりめん浮世絵のこと)観方によっては未知の芸術の世界における版画の神髄を発見することができるように思えるものがあります。」と言うことであり、粗悪なちりめん浮世絵は浮世絵商の言う玩具なのでしょう。
しかし、この玩具扱いの粗悪なクレポン(ちりめん浮世絵)やちりめんの千代紙はファン・ゴッホに多大な影響を与え、クレポン地、クレポンストロークと言うファン・ゴッホ独自の技法を生み出しました。
結論的にはちりめん浮世絵が造られたのは1840年代の天保時代、そして興隆したのは1850年代から1860年代、1870年代だと思います。
そしてなぜちりめんを思いついたのか? という謎は色々な説がありますが、一番可能性が高いのは擬革紙です。
擬革紙とは伊勢擬革紙のウェブから抜粋すると『油紙で作られた煙草入れは、使い込むほどに革のように柔らかくなります。伊勢の国では、このことに着目した堀木忠次郎(三忠)が1684年(貞亨元)油紙を改良して擬革紙の製造を始めたと伝えられています。その後、池部清兵衛(壺屋)が煙草入れに加工し売り出しました。』と出ています。
この擬革紙の製造は一度途切れたのですが三重県度会郡玉城町の擬革紙の会が新たに作るのに成功しました。
そしてこの作り方を参考としていくつかのところがちりめん紙を造っています。
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