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知ってることと知らないこと、知らなかった時みたいに素直に

新しいことを学ぶと知識が増える。

知識が増えて、知らなかったものが知っているものになると、見方も変わる。

例えば、

花火がキレイに光るのは、
“炎色反応”をしているから。
同じ文字を見過ぎてよく分からなくなるのは、
“ゲシュタルト崩壊”が起こっているから、とか。

知っていると、目の前で見えているものに名前を付けることができてなんか面白い。

比べた上でそうであるのが“相対的”、いろいろな用途に使えるのは“汎用性”、白黒の2つに分けて考えるのは“二項対立”、とか、便利で端的なことばが本当にたくさんある。

初めて、言いたいことを表してくれるピンポイントの言葉を知ったときには、会話の中で使ってみたりする。

けど、これらの言葉が自分のことばかと言えば、そうじゃない。

目の前で起きている綺麗なこと、素晴らしいことをある名前でまとめることは、自分のことばで説明しなくなる始まりであると思うし、
会話の節々に、ぎゅっと整えられた漢字をたくさん使うことは、言葉に体温がのりにくい、と思う。

もちろん、いつも自分と似た人たちと話していれば、何も問題はない。むしろ、いつものメンバーとなら、少し難しい用語でも、あえてその言葉を会話の中に散りばめることは、ある種の遊びにもなって、楽しい。

けど、ときに言葉は、それを知らない人を一気に会話の中から排除することにもなってしまう。

新しいことを知るのは楽しいし、知ることで新しい見方ができるようになる。
けど、花火の例なんかはそうで、知ってしまったらもうそうとしか見れない時がある。純粋に、“なんでか分からないけど綺麗”という感覚を抱けなくなる。

たぶん、小学生の頃の花火はもっときれいだった。

言葉もそう。新しい言葉を知れば知るほど、その言葉を使って端的に話せるようにはなるけれど、できた文章は難しい言葉のかたまりで、心や気持ちが乗りにくくなっている。

だから、自分のことばを使っているかが大切で、自分のことばで伝えられる人が、ほんとうに頭のいい人だと思う。

今は、メタバースとかが出てきているし、これからネット上でやりとりする機会は、確実に増えていくからこそ、その分、文字を使うことも多くなっていくと思う。

これからも新しいことを知っていくだろうけど、知らないときのように自分のことばを使えるかどうかが、もっともっと大切になるんじゃないかな、と思う。

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