現役教師が何のために教科の勉強をするのか説明してみた。
教科ってのは"問題解決の枠組み"を提供することでもあると思ってる。
例えば「モテる」を考える。
「試行回数増やそうぜ!」
は数学的な発想だし。
「誘い方を工夫しよう!」
は心理学的な発想だし。
色んな問題解決があると思うんだけど、それは問題の見え方に依存する。
で、「数学的な枠組み」も「心理学的な枠組み」も頭の中になかったら問題自体が見えないんだよね。
「あーここに数学の問題があるなあ」と思えたら、数学のプロに解決策を聞きに行けば良いんだけど。そもそも問題が"見えなかった"ら質問することすらできない。
「だれもが目の前にあるモノを同じように見ている」なんてのは幻想でしかなくて。その人が持っているフィルターでしか世界を見えないわけですよ。
だからフィルターを獲得することは、「新しい問題を発見する」ことに他ならない。そして、見えた問題は解決可能性がある。
生徒に願ってるのは。
「数学の問題が解けなくても良いから、数学の問題がそこにあることには気づけるようになって欲しい」ってことで。
もちろん、個人的には数学が好きやし。気づいたうえで、楽しんでもらえたら嬉しいんやけどw
私が今抱えてる悩みはエンジニアやったら「コード書けば解決できるじゃん」と思うかもしれんし。
薬剤師やったら「とりあえずアレ飲んどけどよ」って言うかもしれん。
でも、そうじゃない私はそんな可能性にすら気づかないから。
それがフィルターを持っていないということ。
で、指摘してくれる人↑もおんねんけど、これがまさに新学習指導要領で言う【見方・考え方】の【見方】に該当する部分だと思ってて。
いかに日常(とは限らんけど)の中に数学を見つけられるのか?という話。
で、これはもちろん教科内で閉じる話ではなくて。他の教科とも繋がっていく。
例えば、斜面を下る運動は数学でも理科でも扱う。ただし、どの部分を見るかは教科によって異なる。
理科では運動自体に着目し(多分)、数学ではその変化量に着目して二乗に比例する関数へと抽象化していく。
書くのつかれたw
だから、まあカリキュラムマネジメントとか総合的な学習の時間とか地域に開かれた教育課程とかちゃんとやるのってホントは大事だよなあ。でも、実際ガチでやるのって大変だよねえへへー。みたいなw
おしまい!
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ちなみに。
「世界の見え方が変わったら問題の解き方が変わる」的なことはわりと本気で考えていて。
興味のある人は、うえお久光著「紫色のクオリア」を読んでみてください。めちゃくちゃ面白いSFです。
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