パンを見上げる

娘が目の高さまでパンを持ち上げてるのを見て気づいた。俺も真似してみた。感動した。俺たちは普段パンを目の高さまで持ち上げることはない。パンの表やパンの裏を見ることがあってもパンを見上げることはない。パンの裏を見ることと、パンを下から覗き込むことは意味が違う。このことに気づいた。そこにはみたことのない世界があった。食べ物は人の設計上、口より上に持ち上げることはない。このことが、あまりにも近くにあるパンという存在を"見上げる"形で認識することを許さなかった。こんなことは意識することさえなかったし、ふと気づかなければおそらく俺はパンを見上げることのないまま一生を終えていたと思う。
しかし、この出来事は非常に示唆的であった。ヒトという設計に由来する行動様式がモノの見方を決定してしまう。これは意識的なものではなく、無意識の行動様式であるため、抜け出すことは難しい。口が目の下についていて、かつ、世界に重力がある以上、俺たちはパンを下から見上げることに慣れないし、意識して見てみたときに違和感を感じるだろう。この違和感は場合によってはキレイとか面白いとかいう感覚を人に与えるだろう。すごく高い食べ物(値段ではなく、物理的に)がフォトジェニックになりやすいのってこんなこともあるのかなあとかも思った。
またコレは食べ物に関わらない。ヒトに由来する行動様式が見方を決定することはあらゆるものに通ずる。打ち上げ花火は横から見れないし、ましてや、夏の星座にぶら下がって上から花火を見下ろすことなんてできない。
これが面白いのは、『そりゃあ言われたらそうだし、別に物事を多角的に見ることは必要だろう立場が違えば意見が違うのだ。』って話じゃないんだよってところ。
ヒトってインターフェースが持っている無意識の行動様式には抗えないから、その部分で無意識的にモノの見方を決定してしまってるんだよなあってところ。パンの例に限らず、どのモノをどのように見るのかってことをヒトってインターフェース由来で考えておけば、その例外になる部分を意図的に作り上げることができるんじゃないだろうか、と。そして、きっとそこにはバリューがあって、なんてことを考えていた。なんとなくすごく大切なことが隠れていそうだなあと思ったので、備忘録としてここに残しておくとする。

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