鍛冶屋の仕事 Vol.3|親方のいない鍛冶工場
ワークショップに通いはじめて1年が経過した。
ナイフの生産はずいぶん手馴れてきたもので、毎月、滞りなく納品できるようになった。
鍛造は――こちらはまだまだだが、鉄と鋼を赤めてたたいてくっつける「鍛接」、この日本の鍛冶技術の根幹ともいえる技も――成功率は3本に1本ぐらいだが――なんとか覚えて、鍛冶屋らしいことができるようになりつつある。とりあえず、刃物は作れるようになったのだ。
包丁を打ちたい
昨年末のこと。
ワークショップで包丁を作ることになった。
ここを運営する合同会社シーラカンス食堂の代表は、北アフリカのモロッコの街・マラケシュに鍛冶工場を作ってしまった。現地の職人とぼくたち日本の職人とのコラボレーションを実現するために、ワークショップで打った包丁に、マラケシュの職人が柄をすげることになったのである。
この取り組みは、貿易に関する種々のハードルがあり、今のところ実現できてはいない。
が、代表が海外にて肌で感じたことは、包丁を打つ職人がもっと必要だということだった。実際、日本製の台所用刃物の人気は高く、中部5県からの2021年の輸出額は61億円と過去最高を更新した(※1)。その需要に対して、日本の刃物製造メーカーの数は年々数を減らしており、供給が追いつかない。
そこで、ぼくが包丁を担当することにした。
現在ワークショップには4人の職人が通っていて、先輩2人は盆栽・植木はさみ鍛冶、同期のひとりは握りばさみ鍛冶を目指している。なんといっても、小野ははさみの産地である。
しかしひとりぐらい”1枚もの”を打つ職人がいてもいいだろう。包丁なら、ぼくや妻も、ぼくの母や祖母も、それに他のより多くの人たちに使ってもらえるイメージができる。鍛冶屋をはじめたことを知るぼくの友人たちから「包丁をたのむ」という声もすでにいくつか届いていた。
写真のように、包丁の”ようなもの”はとりあえず打てるのだが、はて、この先どうしたものだろうか。
普通なら、工場を取り仕切る親方に師事するのだが、ワークショップには親方がいないのだ。
親方のいないちょっと変わった鍛冶工場
鍛冶屋の修行といえば、親方に弟子入りし、丁稚奉公からはじめて苦節10年、ようやく一人前の職人になれる、という世界だった。弟子期間は無給である。住み込みで働いて、盆や正月に帰省するときに小遣いをもらう程度だった。仕事は見て覚える。ヘマをやるとハンマーが飛んできた。
これはこれで、鍛冶屋志望者をふるいにかけ、本当に真剣に取り組む者を見極めるという点でうまく機能していた。その当時、鍛冶屋は花形の職業で、鍛冶屋に餓死なしと言われていた。鍛冶屋志望者もたくさんいたことだろう。鍛冶屋の打つ道具がなければ生活や産業がなりたたなかった時代のことである。
ひるがえって現在はどうだろう。
小野市にもまだまだ現役で働く師匠がたがおられる。
70代――お若い。先日、機材をゆずっていただいた握りばさみの職人は、御年84歳だった。93歳のお花ばさみ職人は、さすがに鍛造はしないものの、研ぎの仕事を日々こなしている。100歳の現役鎌職人もおられる。
この世代の方々は、子供に仕事を継がせない人が多かった。
大量生産の既製品におされ、苦しい経験をなさったからだ。
時代に合わせて鍛冶屋から「刃物製造メーカー」に転身したところは生き残った。が、手打ちの刃物は、機械生産の圧倒的な”数”を前に太刀打ちできない。それで鍛冶屋の年齢層に空白ができ、平均年齢が跳ね上がる結果となった。
もし、自分がそろそろ90代にさしかかろうというある日、若者が「弟子にしてしください」と訪ねてきたら、どうするだろうか。
今の時代、弟子とはいえさすがに無給というわけにはいかない。自分が食べてゆく分の売上ならなんとかなるが、弟子をどうやって食わせるのか。とてもじゃないが、弟子を一人前に育てるまで責任が持てない。
「なら自分たちで工場を持って、技術は近所の職人に教えを乞う」という発想で生まれたのが今のワークショップだ。自分で打った包丁をもって、研ぎ師のもとを訪ねた。
研ぎ師のもとへ
「ひとまず十分や」
「これよりひどい包丁を、もっとたくさん見てきた」
ぼくを勇気づけようとしてくださったのだろう。温かいお言葉をいただいた。しかしもちろん、指摘もある。
「ただこの仕上げだと、1丁500円か1000円か、という世界だな」
「これだと厚みがありすぎて、食材が割れてしまう。鍛造でもっと厚みを抜くように」
親方がいないぼくにとって、仕事をみてもらえる人が近所にいることは本当に心強かった。指摘のあった点を改善したものを打って、また研ぎ師のもと訪れよう。
試行錯誤は続く。
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