ゲームの歴史で残るもの、残らないもの
ファミコンの開発責任者である上村さんと、久しぶりに話す機会があった。15年ほど前。当時上村さんは、任天堂の開発アドバイザーだったが、立命館大学の教授もされていた。
ユーザーが実際にファミコンをどのようにプレイしていたのか興味があるので研究している、と話してくれた。
それから話はゲームの歴史に移った。ゲーム開発者のインタビューや業績はアーカイブとして残っていくが、ファミコンのゲームを買ってくれたユーザーが、どういうふうにゲームに関わっていたのか、どのように情報を集めてゲームを選択し購入していたのか、友だちとどのように遊んでいたのか、などゲームを遊んでくれていた人たちの記録を後世に残すことも必要ではないか、と上村さんは話された。
その後、文化庁メディア芸術アーカイブで1980年代のファミコンユーザーのオーラルヒストリー(関係者から聞き取り記録としてとりまとめること)を実施することになった。2011年のことだ。偶然依頼があったので引き受けた。もちろん上村さんが言っていたことが頭にあった。
聞き取りの対象は、ファミコンが発売されたころ小学生だった2人で、それぞれ3、4時間ぐらい聞き取りを行った。1人は当時ゲーム会社で働いていた人だ。以下はその記録のごく一部である。
『月刊コロコロコミック』で、『ファミコンランナー高橋名人物語』『熱血!ファミコン少年団』『ファミコンロッキー』という漫画を読んでいました。その中で、裏技を紹介していたんですが、うその裏技もいっぱいありました。情報を仕入れて、友だちと教え合っていました。
友だちとはソフトの貸し借りをしていましたが、ソフトの価値がつり合わないと貸してくれないことがありました。貸し借りのトラブルで一番の問題は借りパクです。だいたい引っ越しが原因ですが。
『スーパーマリオブラザーズ(以下、マリオ)』は、当時小学校低学年だったので難しかったんですが、5年生になったらクリアできました。
あまりゲームを買ってもらえなかったので、いかに1本のソフトを遊び倒すかという感じで遊んでいました。兄弟で『エキサイトバイク』を遊ぶときはBボタン禁止とか、ウイリー禁止とかやっていました。
スーパーファミコンが発売されてみんな買ったころ、学校でスーパーファミコンが禁止になりました。なぜかというと、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』が発売された翌日、クラスの半分が休んだんです。僕らは、ドラクエ休暇と呼んでいました。
もう1人は当時ゲーム業界外で働いていた人だった。
『マリオ』がすごいと同級生に言われて、自分もやってみることになるんですが、谷山浩子の『オールナイトニッポン』で『マリオ』の曲に乗せて歌を歌っていたのを覚えています。『マリオ』は、ほかのラジオ番組でも盛り上がっていました。
放課後に見ていたテレビのアニメは、ほとんどファミコンソフトのコマーシャルでした。テレビ東京の『ファミっ子大集合』はよく見ていました。ファミコンの番組は結構ありました。ゲーム雑誌以外でラジオやテレビはゲームの新作情報を集めるのに役に立っていました。
友だち同士でよくゲームの評価をしていました。『スパイVSスパイ』や『テグザー』は酷評されていました。それからキャラクターのゲームはだいたい面白くないとか。アニメとのキャップもあったと思うんです。『機動戦士Ζガンダム・ホットスクランブル』は面白かったと思います。
『バンゲリングベイ』を持っている友だちは、ゲームが批判されると擁護するんです。ここがすごいとか。自分もそれほどひどいゲームだとは思いませんでした。今は駄作だというようなイメージが独り歩きしていて、そういうコメントを見るたびに、当時の感覚と今の人伝えの伝説みたいなものは違うなと感じます。
以上のような聞き取りをしてファミコンユーザーのオーラルヒストリーとして取りまとめた。
ゲーム開発者の対極であるユーザーが、どういうふうにゲームの情報を集めてゲームを買っていたのか、友だちとどのように遊んでいたのかなど、限られた実例ではあるが記録として残すことができた。人それぞれに遊び方、ゲームに対する評価や思い入れがあるということもわかった。上村さんが考えていたことが何となくわかった。
著名なゲーム開発者やゲーム機開発者、大ヒットメーカーの社長など彼らの証言や業績は、公私のアーカイブ活動を通してゲームの歴史として後世に残っていく。
一方当時ゲームを楽しんでいたユーザーたちの実態は、残念ながらほとんどゲームの歴史に残ることはないだろう。しかし、こうした人たちがゲーム産業を支えていたから今日がある、ということを忘れてはいけないと思う。
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