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本当の自分はどっち?

僕が教室でやりがちで、かつ後で反省すること。それは「褒めることでコントロールする」ということだ。
自分の価値観に見合った行動をとった子どもに大袈裟に声をかけることで、周囲の子どもの動きを促そうとする。確かに技術としては必要な時もあるのかもしれないけど、その違和感に「ああ、またやっちゃったなあ」と反省することもたくさんある。褒めてもらえないことには価値がないと思わせてしまうのはやっぱりおかしい。褒めることは外発的動機にすぎないのだ。
そこで大切にしようと思ったのが「ありがとう」のIメッセージ。誰かに貢献できたという感覚は内発的動機づけにおいて、重要な感覚だろう。

こんなことを書いている自分はどうだろうか。最近は在宅勤務がメインで、家事をすることも増えた。最初は「家族のために」と一生懸命頑張る。「ありがとう」という言葉が次への活力になっている。まさに内発的動機づけによって行動している。でもしばらくすると「ありがとう」だけでは何か物足りなさを感じる自分が顔を出してくる。「家族のために」とか言っているのに、家事をしながらもやもやする自分がいる。別に妻が悪いわけでも、責めるわけでもないんだけど…。そんな自分が嫌で嫌でしょうがない。

自粛期間中にはオンライン学習会にたくさん参加した。たくさんの方々と一緒に学べたことが、この期間中の活力になった。この「学びたい」欲はどこからくるのだろう?きっと自分の中に意味を見出して参加しているのだから内発的動機づけによるものなのだろう。でも違和感を感じることもある。GWに登壇予定だった学習会があった。模擬授業者を募ってることを知りすぐに手を挙げた。もっと高みを目指したい!と思って手を挙げたのだが、正直どこかに登壇することでみんなに認めてもらいたいとか、知ってもらいたいと思う自分もいた。いや、実際はこっちの方が大きかったのかもしれない。

家事も学習会も「褒められたい」と思う外発的動機づけが多くを占めている気がしてならない。以前、統計学で「自分100%他人0%の自分勝手人間」と言われたことがあった。なんだか間違っていない気もする。自分を突き動かすのは外からの力であり、自分の内にはその力がないのかもしれない。でも、内発的動機づけで動いていたいと思う自分もいる。自分のダメさ具合になんだか笑えてくる。

でもダメ人間な自分を受け入れていかなきゃなとも思う。カッコつけるのも程々にとも思う。でもそんな簡単には受け入れることはできない。でもそんな自分と向き合いながら進んでいくしかないんだろうなあと思う。

本当の自分はどっち?きっとどっちもなんだろう。


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