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火は電線を伝って燃えうつった。


  FUKKO DESIGN代表理事の河瀬です。火事にあった人の話をお聞きし、まとめる活動をしています。今回は、隣の家からの延焼で、自宅が全焼してしまったご家族のお話です。

noteがつないだご縁

 はじまりは、このnoteでした。ぼくの書いた記事に、こんなコメントをいただきました。

 河瀬さん初めまして。文中に書かれていた、「後ろ暗い気持ち」よくわかります。私がnoteに登録したのは、河瀬さんの『家が火事になりました』という記事を見つけたからです。どうしていいのかわからない中、インターネットで情報を求めていた時に、まさにその記事に出会いました。類焼でした。子供達を親戚の家に連れて行き、煙臭さの消えない体でようやく妻と二人、腰を落ち着けて休んでいた時でした。記事を読んで、思わず涙が出ました。あれから十ヶ月になります。まだ再建の途中ですが、家族にとってこの出来事が、なにか意味のあるものに変わっていけるように、日々を送りたいと思っています。そんな中、河瀬さんの記事を、ときおり読み返しています。どうか記事を消さないでくださいね。

https://note.com/kawabou/n/nd234433a82b0

  このメッセージを送ってくれたのは京都にお住まいの小佐直寛さん。とても心を動かされました。オリンピックも終わり、感染がやや下火になった2021年の秋、おふたりと会うために京都へと向かいました。待ち合わせ場所は京都から阪急電車に揺られて30分ほどの小さな駅でした。

阪急電車にのって
小佐さんたちが新婚時代に暮らした小さな駅
運転する小佐さん

 直寛さんと妻の奈々さんが車で駅まで迎えにきてくれました。向かったのは小さなコーヒーショップ。丁寧に豆をひき、ドリップしていれるこだわりのコーヒーが大好きで、おふたりのお気に入りのお店だといいます。

 緊張しながらの初対面でしたが、同じ経験をした者同士、すぐに打ち解けました。とても嬉しかったのは、ぼくの書いたnoteを小佐さんたちの「未来予想」として使ってくれていたことでした。

 小佐さんは火事に見舞われた直後、ぼくのnoteを読みながら、「1週間たつと、こんなことがおきるんやな」とか「河瀬さんが大丈夫だってことはウチも大丈夫や」と思っていたそうです。おふたりがそんな風に話すのを眺めながら、こちらが救われた気になりました。

 おふたりは、火事にあったことで感じる、いわれのないうしろめたさについて沢山話してくれました。新しいバッグを買うのにもあの人火事にあったのに、って思われるんじゃないかとか、いただいたけれど使わないものを処分できないとか。ふたりは戸惑いながらも、火事のあとの人生を一生懸命に生きていました。

 常々思うのは、火事にはそれぞれの人生がある、ということです。

 そんなの当たり前じゃん、って思うかもしれません。でもみなさん火事になったらなにが起きるのか、ほとんど想像ができないと思います。なぜなら情報がないからです。火事を伝えるニュースはいつも定型です。いつ、どこで、だれが、なぜ、どの程度の被害なのか、を簡潔に伝えます。情報としては過不足ありません。しかし個別の人生や、それぞれの想いまでは語られることはありません。
 小佐さんたちの場合、隣家からの延焼という理不尽な理由で、祖父から住み継いできた愛着のある家が燃えてなくなってしまいました。小佐さんは音楽が大好きで、その家には家族がみんなが使える音楽室があったそうです。ギターもキーボードもピアノも、ほぼ全てが燃えてしまいました。火事だけじゃないけれど、ニュースの向こう側には、それぞれの人生があるって想像してみることも、時には大切です。

 2時間あまりご一緒させていただいたのち、おふたりの写真を撮らせていただきました。

直寛さんと奈々さん

 実はこのとき、ひとつの思い違いをしていました。京都にお住まいだと聞いていたので、京都市内だと早とちりしていたのです。実際は京都府の北端にある舞鶴市にお住まいで、この日はわざわざ車で京都まできていただいてしまったのです。次にお会いする時には、舞鶴にお邪魔して、小佐さんの家があった場所にもお邪魔したいとお伝えしました。

半年後、舞鶴での再会

 それから半年後の2022年3月、舞鶴におふたりを訪ねました。京都駅から特急「まいづる」に乗り、2時間の距離です。西舞鶴駅を降りると小佐さんが改札まで迎えにきてくれていました。

 再会の喜びを伝え合うと、「さっそく現場をみにいきますか?」と小佐さんが切り出し、車で現場へと向かいました。

京都駅で出発をまつ特急まいづる
山をこえて2時間あまり
改札まで迎えにきてくれた小佐さん

 舞鶴市は大きな入江に恵まれた人口8万人ほどの港町。海外からの貨物船や大型客船が利用する商業港と、自衛隊が駐屯する軍港とをあわせもちます。戦後は満洲からの引揚者の玄関口として賑わい、町のあちこちに、かつての名残を残しています。

自衛隊の船があちこちに
港町らしい赤レンガ倉庫
最盛期の名残を残すボウリング場

 小佐さんの燃えてしまった家は、駅からほど近い住宅街にありました。
家がぎゅっと集まった一角にある不自然に大きな更地、そこが火事の現場でした。すごく広く感じました。小佐さんの家も含め、燃えた家は4軒。今は綺麗に整地されており、余計に広く感じたのかもしれません。

4軒分の更地
隣家の塀からみた敷地

 火元となったのは小佐さんの隣家、古い住宅地ゆえ、隣家との距離は数十センチ、風の強い日で、火はあっという間に燃え広がったといいます。
 しばらく更地のまえで話していると、ご近所の方がでてきてくれました。火元の家から見て、小佐さんの家と反対側にお住まいで、風向きのおかげで全焼は免れました。

ご近所はみな仲がよい
ご近所の方のカメラに残っていた火事の写真
火事のすさまじさを物語るものがあちこちに

火は電線を伝って燃えうつった


 小佐さんと男性は、火事をすさまじさを話してくれました。当時、間近で火事をみていた男性は驚くべきことを話してくれました。火元の火が、電線に燃え移り、燃え移っていったというのです。

「ここから、ばーっとかなり向こうまで火が電線をつたってったのよ」

 たしかに火元の家の前の電柱がこのあたりの電線のハブのようになっており、そこから四方に伸びています。そこに炎が燃え移り、電線を伝って火がもえうつったといいます。小佐さんのおつれあいも、自分の家に、電線をつたって火が燃えうつったといっていました。
 すでに火事から1年以上たっていましたが、電線を保護するためのケースが燃え溶けて、飛び散ったままになっていました。
 家屋を焼く炎は大変な勢いで、道路を挟んで10メートル以上離れた家の雨樋が熱でひしゃげてしまったといいます。

 小佐さんも、パソコンを持ち出し、当日の写真を見せてくれました。まるで生き物のように炎は家を飲み込んで、大切な思い出も燃やしてしまいました。

「ここはもともと祖父の家だったんです。獣医をしていて、近所の人たちも気さくに出入りしていて。祖父母がなくなり、結婚してこの家に住むことになったんですが、すごく気持ちのいい縁側があって。子どもたちも大好きな家でした」 家の間取りを話してくれる小佐さんからは、家に対する愛着がひしひしと伝わってきました。

 家を失うということは、物理的に住む場所を失うだけでなく、そこにあった大切な思い出が、踏みにじられたようなやるせない気持ちになります。これは災害でも同じだと思います。ぼく自身も燃えてしまったリビングに立ち尽くした時に、理不尽な力に、大切な家族の場所をめちゃくちゃにされてしまったと感じました。

 小佐さん一家は今は、もとの家から車で10分ほど離れた小佐さんのご実家に身をよせています。少しだけ立ち寄らせてもらいました。小さな倉庫には、火事の現場から引き上げてきた品々がありました。職人を目指していた頃の木工道具、大量のレコード、燃え残ったギターなど、どれも小佐さんが大切にしてきたものばかりです。

ストラトキャスター。いつかはレストアしたいといっていた。
よくみると熱に晒された跡が生々しく残っている
人生で初めて買ったというギターは奇跡的に燃え残った

 そのあとは、港の近くでお昼ご飯をご一緒させてもらいました。ちょうどお昼時で、魚料理の美味しいお店で地元のお客さんで賑わっていました。ぼくはミックスフライ定食を食べました。すごいボリュームだったけど、魚が新鮮でぺろっと平らげてしまいました。

 下の娘のいっちゃんが、ぼくに興味津々で、ご飯をたべている間、ずっとちょっかいを出してきます。とっても可愛くて、机の下からノーファインダーで1枚、写真を撮りました。やっぱりとっても可愛いかったです。

ミックスフライ定食
いっちゃん

 小佐さんは今、元の敷地に新しい家の建築をすすめています。元の家のようにはいかないかもしれないけれど、あたたかいご近所のみなさんと、1日も早くあの場所で暮らせるようになるといいですね。

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 またFUKKO DESIGN火事部では、火事の体験談をあつめ、未来のためにアーカイブする活動を続けています。自分の経験を誰かの役に立てたい、またそうした活動のお手伝いをしたい、というかたがいらっしゃいましたら、下記webサイトのお問合せフォームからご連絡ください。


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