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COVID-19で浮き彫りになった多様性と画一化の矛盾 映画『アートなんかいらない!』

NEC未来創造会議で未来を考えるようになったら、過去も考えるようになって、江戸しぐさにサステナビリティのヒントがあると思って江戸時代にハマった後には縄文時代にハマりました。
同様にデザイナーでもアーティストでもない僕ですが、世界の誰かが困っている社会課題を解決するSDGsにはデザイン思考が大切ですが、社会課題が解決された先には自分たちが叶えたい未来社会を想像して創造することが大切で、そのためにはアート思考が大切だと考えるようになりました。

デザイン思考
顧客の期待に応える方法を見つける思考法。ユーザー視点の商品やサービスの開発力。
アート思考
顧客の要求自体にも疑いの目を向ける思考法。これまでにないものを生み出す力。

サーキュレーション主催ウェビナー「NECの2050未来シナリオの創り方」(一部、資料を改変)


縄文時代にハマった頃(2018年)に観た映画『縄文にハマる人々』。上映された渋谷のシアター・イメージフォーラム。そこで久々に観た映画『掘る女 縄文人の落とし物』。上映までの予告編で気になった『アートなんかいらない』。しかも『縄文にハマる人々』の監督 山岡信貴さんの作品とのこと。これは観ずにはいられないということで観ました。session1とsession2の二部作のため、時間が空きましたが両方を観ての感想を書きます。


COVID-19で浮き彫りになった多様性と画一化の矛盾

昨今、ダイバシティ&インクルージョンが注目を集めてLGBTQなどの個性を表現しやすくなり、誰もが受け止めやすくなった風潮は好ましいし、本来あるべき姿だと思います。僕自身がこのように思えるようになったのも10年以上前にインクルーシブデザインに出会って実際にリードユーザと呼ばれる障がい者と共に過ごしたり、LGBTQの友人ができたことが理由です。

本気でダイバシティ&インクルージョンに取り組む企業もあれば、女性管理職や外部取締役の比率を高めることで近々に控えている人的資本の開示に備えているSDGsウォッシュな企業も散見されて複雑な思いを抱いています…。

企業レベルの話でなく、個人レベルでも多様性が大切だという論調が多い一方で、COVID-19での給付をはじめ、経済界や芸能界、政治などで「お金」が絡んで自分以外の誰かが得をすることに対して不公平感から強烈に反発をしたり、個人の能力や個人を取り巻く環境という「見えづらい多様性」ではなく、性別や年代・収入などの「見えやすい多様性」を評価基準にしがちだったりし、多様性を前提とした凸凹な社会を認めるのではなく、なにか画一的な価値観に集約されるような違和感を抱くことも多い最近です。
COVID-19やロシアウクライナ紛争で経済的にも余裕がなくなっていることが一つの要因とも認識していますが、これらの要因が排除されれば解決されるのか?という疑問は払拭されず考え続けています。

『アートなんかいらない!』でも以下の投げかけがされています。

そんな中、全世界的なパンデミックが始まり、日本全国で不要不急が叫ばれ、美術館をはじめとするアートの現場の閉鎖が相次ぐと、アートの存在意義についてさまざまな意見が飛び交い、時にはアート不要論も叫ばれるようになる。

映画『アートなんかいらない!』


マジョリティが求めた効率と利便性を実現したはずなのに

生活者の要求に応えるべく、効率と利便性を求めた結果、高層ビル、タワーマンション、チェーン店など、どこの街も同じような景色になってしまいました。みんなが効率と利便性を求めた結果、無駄を排除して誰にとっても平等(Equality)で公平な(Equity)な街がデザインされたはずなのに無機質に感じてしまうのはなぜでしょう。

いや、誰にとっても平等で公平な街と書いたが訂正します。誰にとってもではなく、マジョリティにとって平等で公平な街がデザインされたが正解で、そこには排除された人たちが存在します。

多様性が大切と言いながらも、今後もCOVID-19の影響が続いて経済的な平等や公平が優先されるならば、街だけでなく、私たちを取り巻く生活環境はさらに画一化していくようにして思えてなりません。

どこの駅で降りても同じような光景が広がる都市部


ダイバシティ&インクルージョンを活かすアート思考

『アートなんかいらない!』で初めて知った美術家・建築家の荒川修作さんとマドリン・ギンズさんによる東京都三鷹市にある歴史的建造「三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー」。衝撃の一言でした。効率や利便性、無機質という感覚は一切感じられず、有機的で人間らしさ、生命力が画面越しに伝わってきました。しかし、今の風潮では「無駄」という一言で切り捨てられる可能性が高いし、実際に維持運営で困っているとのことでした。

2005年の完成以来、世界十数カ国から人々が訪れ、数々の新聞・雑誌・TV・インターネットサイトにも紹介をされ続けていますが、この建物の大きな特徴は訪れた人の身体を揺さぶる感覚が、人間の持つ可能性に気づかせてくれることにあります。
私たちが多くの時間を過ごす住宅。荒川修作+マドリン・ギンズの長年の研究から、一人一人の身体が中心となるよう、設計・構築された空間と環境は、建築界にも大きな衝撃を与えています。また、芸術作品の中に住める住宅として、今後の芸術が担うべき社会での役割の新しい提案ともいえるでしょう。
「死なないための家」、そして In Memory of Helen Keller ~ヘレン・ケラーのために~ と謳われる理由には、さまざまな身体能力の違いを越えて、この住宅には住む人それぞれに合った使用の仕方があり、その使用法は自由であるということが言えます。3歳の子どもが大人より使いこなせる場所もあれば、70歳以上の大人にしかできない動きも生じます。
私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。荒川修作+マドリン・ギンズは「天命反転」の実践を成し遂げた人物として、ヘレン・ケラーを作品を制作する上でのモデルとしています。
三鷹天命反転住宅は、私たち一人一人がヘレン・ケラーのようになれる可能性を秘めています。その意味において、三鷹天命反転住宅は「死なないための家」となるのです。

三鷹天命反転住宅について(https://www.rdloftsmitaka.com/about/)

デザイン思考とアート思考、マジョリティとマイノリティ

美術家・建築家の荒川修作さんが「三鷹天命反転住宅」を創作できた理由というか、エピソードが映画の最後で語られました。荒川修作さんには障がい者の兄妹がいらっしゃったそうです。だからこそ、マジョリティが求める標準的・画一的な期待に応えるのではなく、マイノリティと言われる方々の思いに応えたいという強い原動力があったのではないかとのこと。

ここまでマジョリティとマイノリティという言葉を使ってきましたが、ある基準(評価軸)での区別でしかなく、基準(評価軸)を変えれば区別が変わるし、区別自体がなくなることもあります。

SDGsで掲げる「誰一人取り残さない社会」。これまでの価値観を前提としたマジョリティによる効率や利便性も大切であるし否定をしませんが、これまで排除されてきた(排除されがちだった)方々と実際に過ごすことで人間らしく豊かな未来社会を創造できるはずだと実感した映画『アートなんかいらない!』でした。そんな未来社会を創造することをワクワク想像することから始めませんか?

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