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「わからない」は不安で、「わかる」が好き。


先日 豊田市美術館にエッシャー展を観に行って、今まで美術館で抱いたことのない感覚になった。


エッシャー(いわゆる騙し絵のようなジャンルの絵を描く人)の絵はとにかく不思議で、その不思議さを私は不気味に感じて、こわいっ!とさえ思って、頭がこんがらがりそうだった!
観覧中、終始 顔を歪ませていたと思う。

インプットしているものを処理しきれない感覚で、この身は確かに時間の流れに乗って進んでいるのに、処理しきれない感覚だけが時間軸に取り残されていくようだった。

この表現が合っているかあまり自信はないけれど、数学的なアートって感じ。
脳を騙す、その絶妙な加減で描かれた作品たちを、私は「面白い」という感性で見れなかった。


「わからない」という感覚を私は楽しめないのだと知る。


私は今までずっと、「わかる」という実感に安心を覚えていたことに気づく。

それが本来込められた意味合いに沿った理解であるか、ただの個人的な考察であるのかは重要ではなくて、“「わかる」と感じる”ことで何か満たされる感覚を得ている。


「わかる」というのは、自分が今まで感じてきた感覚や、体験してきたこと、知っていること、に、当てはめることが出来る…という感じ。

そういった、「共感」とも近いような、心の内での作業が好き というのは、日頃自分自身に感じている“「親身になること」が得意”というところに繋がる気がする。


これらがいいとかダメとかではなくて、そんな新発見に少し驚いたし、たとえ“「わからない」=不安”な感覚でも、「私は今わからないんだ」と理解を入れることで、それは安心感に繋がってゆく。
ややこしい話だし、まだ上手く説明しきれない部分もあるけれど、これはかなり面白いと思った。


そして、日頃から「わかる」感覚を求めているとすれば、「わからない」領域もあるのだということを学んでいく必要もあるように感じる。

他者の全てはわからないし、わかった気になんてなってはいけないと思うから。


きっと、今は、違いを学ぶ時。
わかるもわからないもある。



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