山梨県甲府市の『黒平温泉(跡)』のこと

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2012年11月記

山梨県甲府市に所在する「黒平温泉(跡)」についてです。黒平は「くろべら」と読みます。(跡)を括弧付けしたのは、泉源からは現在も源泉が湧出しており、地元の方が利用しているので温泉としては現役なのですが、周辺にあった旅館などの建造物は何もなくなり、すでに遺跡となっていることから、仮に(跡)としました。

黒平温泉(跡)(以下、(跡)は省略します)は、標高1100~1200メートル附近の山中に所在します。鹿の群れやイノシシに、しょっちゅう出くわすような所です。前に国土地理院が発行した地形図には、甲府市黒平町に温泉記号が付けられていましたが、実はそこではありません。その地点よりさらに道なき道を山中深く分け入った所です。こういう話をすると、いわゆる「温泉マニア」の中には行ってみたくなる人が出てくるかもしれないので、話題にするのは止めようかとも思いました。とても危険な場所だからです。実際私も管理をされている方の許可を得て、山中に踏み込んだのですが、方向を見失って崖から滑落し、危うく遭難しかけるところでした。あまりに帰りが遅いと思った管理をされている方が、心配して探しにこられ、もう少ししても戻らない場合は、捜索を要請しようとしていたそうです。2回目以降の調査ではそういうことはありませんが、けっして安易な気持ちで、管理者の許可も得ずに行くことだけは、絶対にしないで下さい。

黒平温泉は、甲府市内から自動車で1時間程の北部山岳地帯にあります。麓の下黒平は、住人のほとんどが65歳以上の高齢者という限界集落です。標高が高いこともあって、この時期はかなり冷え込みます。公共交通機関の便もなく、最寄りのバス停までは健脚の男性でも2時間以上かかるような(歩く人はいないでしょうが)土地柄です。

この下黒平集落からさらに40分ほど山を登ったところに黒平温泉はあります。江戸時代には近郷近在のみならず、信濃国(長野県)などからも入湯客が訪れ、湯治場として賑わいを見せていました。香川修庵の『一本堂薬選続編』(「温泉」項)や、八隅蘆庵の『旅行用心集』でも甲斐国内の温泉として紹介されています。

史料の残存は断片的でまとまったものはなく、よって歴史的な研究は殆ど行われていません。広島市の湯の山温泉の場合と同様、地元の自治体史、『甲府市史 通史編 第二巻 近世』(甲府市史編さん委員会編、甲府市役所発光、平成4年3月)と『甲府市史 別編Ⅲ 甲府の歴史』(同、平成5年3月)の中で3、4ページほど触れられているだけです。ただ、以前に温泉微生物学的な関心から源泉の調査がなされたことがあり、2008年11月に北海道大学で開催された日本微生物生態学会で東邦大学の杉森賢司氏が発表しています。ご関心のある方は『第24回日本微生物生態学会講演要旨集』101頁の「山梨・黒平温泉に生息する硫黄酸化細菌」をご参照下さい。ネットで「日本微生物生態学会」と「黒平温泉」の2語を検索すればPDFファイルで読むことができます。

さて、現在の黒平温泉ですが、温泉水や湧水により附近は湿地帯となっていて、歩いている最中に足の踏み場を間違えると、ズボッと埋もれてしまうような所が多々あります。一人で赴いた初回調査の時には、片足が太もも辺りまで、もう片足が膝の上まで嵌まり、脱出に30分以上かかるという経験をしました。履いていた長靴も救助しようとしたからかもしれませんが、足を抜こうと力を入れると、その分さらに深く埋没していくのです。この時は、遭難しかけた上にこの有様で、散々な調査行になってしまいました。

現地でいま目に出来るのは、泉源と湯神の祠(跡)、燈籠、それに江戸時代から明治に築造されたと思われる石垣です。石垣は、遺跡内のあちこちで見ることが出来ます。山岳地帯の急斜面に所在する温泉場でしたから、宿などの建物を建てるのに必要な平場を確保するために築いたものでしょう。他にも、現在の地面下に埋没した石造構造物の一部が露出している所も確認しています。

その石垣ですが、かなり崩壊が進んでいます。自然崩壊(地震や大雨等による)だけではなく、シカやイノシシの仕業と思われる破壊もあるようですので、このまま放置しておくと、一部の石垣はあと数年で完全に跡形もなく崩れ去ってしまうかもしれません。泉源と石垣は、この黒平温泉を研究対象として復元するための重要なメルクマールとなりますので、学術上極めて重要な部分です。

数回にわたる現地調査と、断片的な史料を詳しく検討した結果、温文研では黒平温泉を山岳地域における湯治場の一形態を伝存する貴重な温泉場遺跡、と位置付けました。この理解が的外れでないとしたら、その学術的な価値を損ねないために、まずは石垣の崩落を食い止め、可能ならば修復・復元も含めて何らかの対応をしなければなりません。でもそれには、多額の費用が必要です。土地の所有者のこともあります。そこで温文研では、地元の甲府市教育委員会に対して、黒平温泉(跡)を文化財(史跡)に指定し、必要な保存措置を講ずるよう請願することにしました。この温泉場跡は、甲府市はもちろんのこと、山梨県にとっても学術的な意味において、とても貴重な遺跡であることは間違いありません。香川修庵と八隅蘆庵は、ほかに甲斐国内の温泉として「川浦」(山梨市)・「下部」(身延町)・「奈良田」(西山温泉のことか、早川町)・「塩山」(甲州市)・「湯村」(甲府市)の5温泉を掲げていますが、明治以後も大きな開発が行われることなく、現在も江戸時代~明治時代の温泉場遺構が総体として残存しているのは、唯一ここ黒平温泉だけです。

以下は甲府市教育委員会の関係者と行った会議で配布した資料の一部です。甲府市黒平町 黒平温泉(跡)について                【黒平温泉(跡)の現状】                      ◎黒平温泉は、甲府市黒平町に所在し、現在下黒平集落の民家15戸程が引湯し利用しているが、温泉台帳などには登録されていない。       ◎独自の簡易試験によると、泉源(湧出口)は2ヶ所あり、共にpH4前後、泉温12℃程度の弱酸性泉。湧出量は毎分計6リットルほどである。湧出口附近には硫黄の析出(温泉華)が認められる。硫黄の析出は、山梨県内の自然湧出泉源においては珍しい。                    ◎温泉場は沢に面した斜面に立地するため、江戸時代以降、温泉及び宿泊施設の設置に際し石垣を築いて平地を確保した。石垣は、江戸時代築造部も残存すると考えられるが、崩落(自然及び野生動物等による)が進んでおり、一部原形を留めない個所も見られる。                 ◎泉源位置からの推測によると、何らかの入浴設備(浴槽など)が残存している可能性がある。また、泉源の上部には湯神の祠が所在し、江戸時代の年号(寛政八年)を刻む燈籠が残されている。              【黒平温泉(跡)の概要』                      ◎黒平温泉は、江戸時代に開湯した温泉場で、『山梨県史』や『甲府市史』に関係史料が収録されており、『甲斐国志』・『裏見寒話』・『甲州噺』・『甲斐国茶話』などにも記載がある。また、元文2年には鈴木調之が湯治に赴き、『壺中軒日記』にその盛況を書き留めた。            ◎香川修庵が元文3年自序の『一本堂薬選続編』(「温泉」項中「和華温泉考」)に、全国の主要な温泉地を紹介する中で、甲斐の主要な温泉地として「甲州之川浦・下部・奈良田・塩山・黒平・湯村」と記載して以後、黒平は甲斐国の著名な温泉地として全国的にも知られるようになる。渋井孝徳『温泉譜』や八隅蘆庵『旅行用心集』など、以後の温泉論・温泉記・旅行記でもこの評価は継承された。                       ◎内務省衛生局編『日本鉱泉誌』では、位置景況を「山腹草叢ノ間ヨリ涌出ス其傍旅店三戸アリ道路ハ狭隘ニシテ来往甚タ不便ナリ」と記すものの、浴客数は「明治十二年十三年平均一ヶ年凡千三百二十五人」とする。低温であるため、入湯は夏季に限られており、営業が4ヶ月としても月300人以上の湯治客があったことになる。山岳部に所在する温泉場としては、活況を呈していたことが窺われる。                      【黒平温泉(跡)の価値】                      ◎歴史のある温泉地は、全国に数多くあるが、そこでは現在も営業が継続されているため、江戸時代以来の「温泉場の景観」はほとんど失われている。黒平温泉では、温泉場が総体(泉源・湯神祠・浴槽・旅舎など)として残存している可能性が高く、わが国温泉史上きわめて重要である。      ◎性格としてはやや異なるものの、類例に広島県広島市佐伯区の湯の山温泉「湯ノ山明神旧湯治場」(1958年広島県指定史跡、1974年国指定重要有形民俗文化財)があり、これらと対比することで、江戸時代における湯治文化を解明・理解することが可能となる。また、発掘調査を経ることにより、江戸時代の温泉場景観を物語る全国的にも貴重な史跡となり得る。  ◎現在、温泉に関する文化財(史跡・天然記念物を含む)として、各地で泉源や浴槽などの指定が行われている(例:静岡県伊豆山温泉「走湯跡」・栃木県那須湯本温泉「鹿の湯跡」・長野県大鹿村「鹿塩の湯泉源」・岐阜県川辺町「鹿塩の湯泉源」・鹿児島県指宿市「殿様湯跡」など)。ただしこれらは、温泉施設の部分的なものであり、温泉場全体を指定したものではない。◎黒平温泉では、湧出量は限られているものの、今も泉源から源泉が自然湧出している。泉源が健在である湯治場遺構は珍しく、調査・保存措置を講ずることにより、歴史・地質・化学など、複合的な側面から温泉を学習する場としての活用が可能である。

ところで、去る11月24日の『朝日新聞』朝刊に、『世界遺産40年 日本も観光より保護を』と題する社説が掲載されました。「世界遺産は、観光地への「国際的お墨付き」ではない」で始まる文章です。「本来の目的は、国際協力を通じて遺産を保護することだ」、「観光の楽しみや経済効果を期待するばかりでなく、遺産の保護に思いを致すべきだ」と主張しています。私もその通りだと思いました。ユネスコ(国連教育科学文化機構)が世界遺産条約を採択したのは、国際的な協力の下に途上国などの文化・自然遺産を人類普遍の財産として保護するためだったはずです。現在の日本では、その精神は忘却され、「経済効果」ばかりが期待されています。その結果、遺跡の破壊や生態系への影響さえ懸念される状況となってしまいました。もっとも、2004年に文化遺産として登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の湯の峰温泉(和歌山県田辺市本宮町)や、2007年の「石見銀山遺跡とその文化的景観」の温泉津温泉(島根県大田市)では、人が押し寄せたのは登録後のしばらくだけで、すぐに波が引くように客足は元に戻ったと聞きました。

どうして、「遺産保護」と「経済効果」を同列で考えてしまのか。実は昨今の文化財も、それが「商品」としてどのくらいの価値があるかで重要性が判断されることが多いと聞きました。もしそうだとすると、黒平温泉(跡)の文化財指定などは、絶望的です。甲府市の北部山岳地帯にあるこの温泉遺跡には、たとえ指定されたとしても集客など望むべくもありません。地域振興にもならないでしょう。しかも甲府市といえば、武田信玄公に甲斐武田氏、それに甲府城です。行政の関心も、こちらに向かうのは必然なのかもしれません。

それでも、何とかしないと、そう考えています。すでに甲府市教育委員会に請願してから4年以上経つのですが、一向に進展していません。ですが、温文研としては根気強く(石垣の崩壊が進行しているので、暢気に構えているわけにはいきませんが)指定の必要性を訴えていきたい思います。可能であれば、来年にでも遺跡保存をめぐって市民の皆さんと考える場、シンポジウムなどを開催したいと考えています。温泉という文化が広く理解されていないのは、確かです。博物館で温泉展が開催されないのも、根は同じだと思います。

私は、上記の発言と矛盾することを承知の上で、現状を変えるため、あることを提案することにしました。「日本の温泉文化」を、ユネスコの無形文化遺産に登録することです。無形文化遺産になれば、たとえ一時的なものであろうと国民の関心が高まることを期待してのことです。無形文化遺産は、日本からは現在20件登録されていますが、これまでは歌舞伎などの古典芸能や祇園祭など特定の祭礼、あるいは地域の技術伝承などでした。ところが、フランスやメキシコなどの食文化が登録され、日本でも農水省が音頭を取て「和食文化」の登録を目指すことになったそうです。ならば「温泉という文化」も、検討してみる価値はあるんじゃないかと。

時々、講演会や講座の講師として呼んでいただくことがあります。そのような時、最近は最後に無形文化遺産への登録についてお話することにしているのですが、なぜか温泉業界の反応は冷ややかなものです。どうやら「登録されたところで、自分たちの旅館や温泉地に人がたくさん来るわけではない」とういうことらしい。「経済効果」ってやつです。確かにその通りかもしれません。『朝日新聞』の今年6月2日の夕刊(ニュースのおさらいジュニア向け)で見かけた記事「なぜ和食を世界遺産に?」で、国立文化財機構東京文化財研究所・無形文化遺産部長の宮田繁幸氏がコメントしています。登録に必要なのは「その国、その地域の人たちが、自分たちの文化として残したいという気持ちを強くもっていることです」、「反対に、専門家がいくら価値があるといっても、人びとが『いらない』と思うなら、リストに入れる意味はありません」。だとしたら、温泉文化の無形文化遺産登録も、黒平温泉跡の文化財指定も、まだまだ先のことになるかもしれません。でも諦めませんよ。

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