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【コラム】 稲作は努力を肯定し、才能を否定する文化を育てる

 去年、大谷選手がメジャーでMVPを取りましたけど。で、もう何ヶ月も前だけど、MLB公式が大谷選手のイメージビデオを作って、そのタイトルが「GIFT」っていうんです。

 youtubeに日本語訳がついた動画がありますので、見てみてください。鎌ヶ谷が素敵に映っていて面白い。

 で、動画タイトルの「ギフト」。贈り物という意味ですね。最近は日本語でも、天才を表す言葉として「ギフテッド」とか言いますが。「神様から贈られた才能」みたいなこと。

 そもそも、西洋文化のベースにあるキリスト教文化では、人間は神様が作ったものなので、才能というのも与えられたもの。神様が良いステータスを振ってくれたんだな、という贈り物ですね。

 面白いなと思うのは、日本人の感覚だと、大谷選手を褒めそやすときに素晴らしい才能を持って生まれてきましたねとは言わない。生まれもった才能というと、なんか努力していないみたいな、悪い印象になっちゃう。

 だから大谷選手の業績に対しては、人並み外れた努力の末に、みたいな言い方になる。大谷選手が高校時代に書いた目標ノートとか、毎日のトレーニングとか、そういう「努力」を褒めそやす、という方向になります。

 イチローだって「天才」と言われるのを嫌うそうですし。誰よりも努力したから今がある、という言い方をする。でもイチローだって天才なんですよ。身長180センチあるんですから。

 野球は、単純に身長が大きい方が有利。筋力も身長に比例して、つきますし。筋肉量は体積に比例するとすれば、身長が170センチと180センチだったら、(180÷170)の3乗で、1.2倍の筋肉量があるわけです。背が高い方が有利になるに決まっています。

 実際に、日本人男性の平均身長は170センチなのに、プロ野球選手の平均身長は180センチです。身長というファクターが関係ないのであれば、プロ野球選手の身長も170センチ平均じゃないと、おかしい。そして180センチある男性は日本人の6.5%だけです。身長が180センチある人と、150センチの人とでは、プロ野球選手になれる確率は全然違うわけです。

 で、身長は「努力」でどうなるものではなく、遺伝で8割ぐらい決まっている。身長は努力じゃなくて才能。ちなみに大谷選手の身長は193センチで、日本人男性で190センチ以上の人は0.1%です(1000人に1人くらい)。それに加えて、運動神経がよくて、健康で、筋肉がつきやすくて、となると、そもそも大谷選手は遺伝子的に、1万人に1人ぐらいの才能がある。

 という上での「努力」は、もちろんあるだろうと思います。いくら190センチで運動神経抜群で生まれようが、何もしなくてプロ野球選手になれるわけは無い。まぁ、努力をできるかどうかも「才能」によるという話もありますが、そこまでいくと全てが才能、つまり「親ガチャ」という話になってしまうので、つまらないから触れませんが。

 ともかく大谷選手に明らかな「天性の才能」があることは間違い無い。身長だって才能ですから。で、それを英語ではgifted、神様から与えられた贈り物、という理解の仕方をしている、ということです。

 英語で「天才」を表す単語は、いろいろとあります。talent、gift、genius、とか。

 微妙に意味が違って、talentとgiftだと、talentの方が努力割合が高い。身長が高いとか、運動神経が良いとか、生まれつきのものはgiftですね。一方、すごくトレーニングしてピアノが上手くなったとか、そういうのはtalent。で、geniusは、そういう才能を持っている「人」です。giftやtalentは能力そのもので、geniusは人。という違い。

 対して、日本語では「天才」を表すような言葉が、そんなに無い。天才、というのは音読みですし、音読みということは、そもそも日本にあった言葉では無い。

 才能、という言葉もそうですね。で、なぜ日本と西洋でそういう文化的な違いが出てきたのかというのが本題です。一方の文化は、才能というものが存在し、それは神からの贈り物であると理解している。もう一方の文化では、才能というものは基本的には無く、努力次第で人間はどうにでもなる、と思っている考え方が真逆なんです。

 その根っこを探っていくと稲作にたどり着くんじゃなかろうか、と思うのです。

 人間がいかにして食料を獲得するか、その方法はいろいろあります。狩猟採取や漁業のように、自然界で生きる動植物を捕まえる方法。遊牧や畜産として、動物を飼育してそれを食べる方法。

 農業も、主食だけでも、タロイモ・トウモロコシ・麦・米などがある。そして、それぞれの食材によって「どうやって取るか(生産するか)」は、かなり違う。で、その生産方法における「才能の影響度」が存在する。これは、食べ物によって多い少ないがあるのです。

 つまり「誰でもできること」なのか、それとも「才能ある人しかできないこと」なのか。そういう違いがある。

 僕が思うに、狩猟採取は「才能」の割合が高い。現代だって、優秀な船長が指揮をとる漁船は、漁獲高が多くなります。だから漁師の世界では若かろうが、魚をとれる船長のところに、人は集まる。才能がものを言う世界です。

 世界中にある色々な食糧の中で、トップクラスに「才能が必要無い」のが、稲作だと思います。農業自体が、狩猟採取に比べたら才能の割合は低い。獲物は、複雑な要因を総合的に判断して、捕まえないといけないけれど、農業では世話さえすれば、どうにかなる。そこまで才能が必要無い。

 そして、いろいろとある作物の中でも、稲作が特徴的なのは「灌漑施設で、水を引いてくる」ということ。つまり、天候(雨量)にも左右されにくい。運(天候)にも左右されない。必要なことは、きちんと水路を作り、きちんと田植えをし、草をとり、という真面目な作業。

 才能が関わる割合、そして運の関わる割合も、トップクラスに低いのが稲作だと思います。

 すると、稲作文化は、どういう人を「良い人」とするか。真面目にコツコツと働き続ける人、です。才能にも頼らない。運にも頼らない。頼るのは、努力です。その上に、日本人的な価値観も生まれた。毎日、きちんと努力を続け、真面目に働く人が良い人という価値観になりう。なぜなら、そういう人は、ちゃんと米を作るからです。

 一方で、才能に頼って変なことをする人は、迷惑。米作りに才能はいらないんですよ。だから、出る杭は打たれる。稲作における「ギフテッド」は存在しない。野球界にはギフテッドは存在するけれども、稲作にギフテッドはいないんです。

 才能がある漁師が平均の10倍をとることはあっても、才能のある農家が10倍の米をとることは無いです。せいぜい1.3倍ぐらいです。できないやつだって、できるやつの半分ぐらいは作れるんです。個人の才能によらないシステムが稲作なんです。

 人間の能力というのは、西洋だろうが日本だろうが変わらないので、問題は、その「微妙に違う人間」を、どう捉えるか、という「見方」の問題です。虹の色を何色と見るか、というのと同じことです。

 虹の色を5色だという文化も、7色だという文化もある。そして、虹の色を、あえて違いを微細にまで捉えようとしたら、光のスペクトルなんですから、人間が判断できる限度まで、色は分けられる。何百万色、ぐらいまで分けられる。なので、そこに正解があるわけではなくて、微妙に違う事物を、どう理解するかという方法が、文化の違いになります。

 西洋では「ギフテッド」のように、才能というものが「存在する」という文化を作り上げた。日本は「努力」による成果が存在する、という文化を作り上げた。なので、大谷選手をMLBはギフテッドとして称え、日本では比類なき努力の結晶として称える。虹の真ん中あたりの色を「赤」と見るか「青」と見るか、というようなもの。どちらが正しいということもなく、ただ、そういう「見方の違い」があるということです。

 中立的な見方をすれば、おそらく、その間にあるのが「まとも」だと思うので、全ては才能だと思わず努力もして、また逆に、全てが努力だとは思わずに生まれつきの才能があるとも思うことで、良い意味での諦めとか自己責任の無さとか、心が気楽になることもあると思います。

 またあした。

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