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[死ぬ]という現象の意義

死の意義って、

1.死があることによって生が価値あるものになるから
2.残された人に一生消えない言葉と伝説のようなものと、儚さを渡せるから

の2点だと私は考えている。

先週、2012年夏アニメ、『夏雪ランデブー』を視聴した。

簡単にまとめると、この作品では、死んだ夫が遺された妻に取り憑いて、妻が新たな恋に進もうと歩き始めた時に悉くその恋路を邪魔する姿が描かれている。

挙げ句の果てには、妻が新しく恋をしようとしている男の子の体に入り込んで、妻を騙す形で、2人で思い出を作っていってしまう。

死んだ夫が妻に取り憑く、ここまでは、まだ良い。妻を遺して先に死んでしまった悔しさ、申し訳なさ。そんな気持ちは想像できる。

しかし、妻に取り憑いた挙句、生きている人間の恋路や前を向く気持ちを邪魔をする。
これは、死への冒涜なのではないか。

死の意義(2)を真っ向から否定していると感じる。

人と人は限られた時間でしか思い出を作れなくて、言葉を交わせない。そんな限られた、貴重な時間の中で2人の時間を共有するから意味がある。
死んでも尚、生きた人間の体に入り込んで妻と時間を共有し、思い出を作るなんて、自分の死を無駄にしているとまで言える。

この人せっかく死んだのに、無駄死じゃないか。とまで思った。

人が死んでしまった後、遺された人が、「あの人のこんな癖が好きだったな」「あの人の理屈っぽいところ、憧れてたな」とか思い返して、心の中で大切に大切にあっためておく為に、人は死ぬんだと思う。

そうやって心の中で大切にあっためておける物がある人は、その後の生が更に輝くし、大切なものになるし、なによりも遺されたお陰で描ける未来がある。
 
なのにそんな大切な意義さえもぶった斬って、死人のエゴで第三者の体を乗っ取って妻ときゃっきゃして、この作品は、なにを伝えたかったのだろう。

「人の死」という大仰なテーマを扱うぐらいだから、この作品の作家さんは、きっと魂を削る想いでこの作品を創り出したのだと思う。
0から1を作り出すクリエーターという仕事は、想像の範疇を越える過酷さであるはずだし、その中で「死」の匂いがする作品を作ろうと思ったのにはきっと、なにか意図があるのだろう。

私がその意図を汲めていないだけなのかもしれない。けれど、この作品を観終わった後、
「ただ切ない恋にしたくて、死という概念を扱っただけなのでは?」としか感じられなかった。

「死ぬ」ということをそんな風に消費されるのは、なんだか、泣いている人を殴るような、雨の日に人の傘を奪うような、そんな横暴さを感じる。

私の尺度だけで作品を測ってはいけないと思い、評価を読んでいると、多くの人が、「なんて美しいんだろう、、」「泣けるほど良いエピソード」というようなコメントをしていた。

「死んでも尚、暴挙に出てしまうぐらい妻を愛している夫が可愛い」らしい。

可愛い.......?

「死ぬ」という概念について、これっぽっちも考えたことがない、思想を持ったことがない人が多いのだなと感じて、(それは別に全くもって悪い事ではない)

そして私がかなり斜に構えてしまっているのだなとも思って、

なんだか私は、この世の秩序に一生入り込めないのだなと強く感じてしまった。

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