昔のオタクは狭量だったという話

息子はオタクである。

PCハードウェアオタク。
仮面ライダーDXおもちゃオタク。
工具オタク。
PCゲーオタク。
プログラミングもきっとオタクになる(プログラマとしてのスキルは初心者に毛が生えたレベルだが、将来はかなりハイスキルなとこまで行くに違いない)。

父親である自分は、気質としてはオタク的ではあるけれど、どんなオタコミュニティにも深入りしない風来坊気質がある。研究者コミュニティにしろMTBコミュニティにしろそれ以外の諸々のコミュニティにしろ、付き合いはあるけどどこも深入りしない。

しかしオタクをマネタイズするには、どこかのコミュニティに頭の天辺まで浸かりきってしまう必要がある。だから自分は商売は上手くない。

その点、息子はMAKER系のオタ趣味に特化してどんどん深みにハマっているから、きっと父親より稼ぐだろう。近い将来には。

そういうわけだから、基本的にはオタク道を躊躇わずに爆進していって欲しいと思っている。ただ一つだけ注意してもらいたいのは、狭量なオタクにはなるな、ということだ。

実は昔のオタクは概して狭量であった。

何故ならば、コミュニティの中では知識量によるヒエラルキーが明確にあったからだ。もちろんみんな平等だよという建前はあるけれど、実際には知識量でマウンティングをかけるキモオタは珍しくもなかった。オタ知識こそ権力の源泉だったから、なるべく知識やデータベースの場所は隠匿し、知識をチラ見せすることで取り巻きを増やし、優越感に浸るというのが、10年ちょっと前までのオタクだった。

(実は私くらいの世代より上の人文系の研究者には、こういう気質を強く残している人が無視出来ないくらい多い。ネットが発達する以前は、資料や史料へのアクセスがあるかどうかで研究業績を積めるかどうかが決まってしまったから、ごく狭い範囲のお仲間の間でだけ情報を交換するというのが当たり前だったのだ。ただし、見ていて気分の良いものではない。というか、明確にキモかった)

今はむしろ、どれだけ知識をシェアしているかがオタクの評価を決める。より多くシェアする者がコミュニティの中で尊敬を集める。これはyoutubeやSNSが普及したことで、情報の流通コストがほとんどタダになった結果であろう。

息子は(あまり父親にはその姿を見せたがらないが)、実は自分の知識やスキルをシェアするのが大好きだ。youtubeで育ったからなのだろうと思うが、昔のオタクの欠点を持っていない。そういう意味ではyoutubeというのは、とても良いウェブサービスである。

このまま、21世紀的なシェアリングの精神を持った、隣人愛のあるオタクとして育って欲しい。


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