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雑感:死を目の前にして「改心する人」の行動について

最近もやもやすることがあった。

とある人から電話があり、『昔からお世話になっているコンサルタントとして非常に成功している人が、新しく教育事業をやりたいといっている。手伝ってほしい』ということを言われた。なんでもそのコンサルタントの人はまだ40歳代半ばであるが昨年癌でステージ4と診断され、余命半年友まで言われたそうだが、今でもまだ治療をしつつ、一般的な日常生活を送られているそうだ。

それまでのそのコンサルタント(仮にA氏と呼ばせていただく)は、なかなかやりてであったようだが、いわゆる「パリピ」的なノリの人で、A氏のフェイスブックは、約1年前までは超高級すし店など飲食店で仲間と楽しんでいる写真(時折、パリピ全開の写真)や、コンサル先?の会社なのか、著名な社長などとのガッツポーズのようなポーズの写真(何か特定の意味があるのだろう)が並んでいる。それが、約1年前からは『人生における名言・格言集』のような様相を呈している。

人間氏を目の前にするといろいろ考え方が変わるのはわかる。もちろん、40歳半ばにしてそういう宣告をされたA氏の精神的苦痛は想像を絶するものであったに違いない。そこに関しては、同世代の人間として非常に悲しみを覚える。

しかし、だからといって『これからは自分の人生を教育ということに懸けていきたい』ということにはあまり賛同ができない。

大変失礼な言い方にはなるが、教育ということを多分あまりわかっていない中での思いであろう。

教育というものは、字面で言うと【教え育てること。 知識、技術などを教え授けること。 人を導いて善良な人間とすること。 人間に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用。 人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。】とある。
私個人としては、対象が小学生であれ大学生であれ、【これからの世の中を見据えたうえで、どう生きていくかを考えられるように導くこと、生きていくうえで『これは面白いな』と思ってもらえるような知識や知恵や事象を、その本質的な面をしっかりと理解させることができること、そして教育した人間について責任をある程度持てるような覚悟も持つこと】だと思っている。簡単にいうと、教えたなら教えたなりの責任が伴う。これから残された人間が『教育』というのは聞こえはいいかもしれないが、ではその人たちがあなたが教えた知識を活用しても上手くいかなかったり道に迷ったときにどう反省してどう修正ができるかということまでは考えなければならないとは思わないのか。

A氏はコンサルタントとして全国でセミナーなども行っているようだ。しかし、私も全国で講演・セミナーなどをしているが、『その後自分の話をした内容で取り組んだ結果、失敗した』という人には出会ったことはないし、そういわれても困ると思う。セミナー程度の時間や内容で『私は○○氏の薫陶を受けた』などといってくれたら困るのはどんな人でも一緒だろう。これは教育とは言わない。
一方私や一部の人は、例えば私なら今まで愛媛県や兵庫県、大分県で行ったような「ハンズオンで成長を促す」ような事業(6次産業化エグゼクティブプランナー案件等)でかかわった人(農業者漁業者など)については、その仕事(契約)が終了後も、その人たちの悩みや課題に対し一緒に取り組んだりしている(もちろん直接的な費用はいただいていない。私の関りによって得られた成果についての一部はもらったりもするが)。
A氏はコンサルティングをしたのは1000件以上に上るという(開業して18年程度で)。ということは年間50件から60件。1か月に5件弱。そういった件数をしていれば、おおよそハンズオンのような支援をずっと続けていくことは不可能であろう。

教育ということは、『寄り添う』という態度が必ず発生する。私は大学で講師もしているが、一人一人のコメントやレポート(それがいかに拙く、汚い字であったりしても(笑))には真摯に対応する。そして、中途半端であってはならない。もし、誰かを育てたいと思うのであれば、その人がある程度のレベルに達するまでしっかりと寄り添う必要があるものである。そうでなければ、ただ単に知識の投げ売りでしかない。それは教育者ではなく、自己満足の人である。

A氏はそういった『寄り添う』ことをしてこなかった反省を込めて、これからは『教育』をという意志なのかもしれない。しかし、厳しい言い方であれば、自分がどこまで責任を持って関りができるかどうかわからない状況で『教育』をいうのは私は違うと思う。


私はこの7月半ば、とある50歳代半ばの先生(仮にT先生と呼ばせていただく。大学教授だけでなく大手小売業の社外取締役なども務めている。私とは元とある大手小売りグループの社員同士だったこともあり親しくさせていただいていた)から某県立大学の講座を来年から引き継ぐこととなった。学会でもお世話になっているので、正直忙しいけど断れなかった。ただ、私とそのT先生くらいしかフードマーケティングの分野で実務と研究をしてきた方はいない(もちろんそのT先生の方が私なんかより圧倒的に実績があるのだが)ので、信頼されていること自体がうれしかったのでその講座を受け持とうと思った。引き継がなければなら理由は、その先生のご病気だった。入院もする必要があるとのことで、本業の別の大学の講座・研究に差し障るからという理由であったが、そこまで深刻なものだとは思いもよらなかった。

そのT先生は先週、お亡くなりになられた。

そのT先生が親しかった方によれば、7月ごろからいろいろな仕事を整理していたという。8月には急激に体調が悪くなり、いくつかの自分主体の大切なプロジェクトについても本当に親しい人にそのあとを頼んでいらっしゃったという。


人間はいつ死ぬかはわからない。私だって明日何かで急にこの世からいなくなるかもしれない。だとしたら私がやりかけていることはすべて中途半端になる。

しかし、死が間近に迫っているとしたら、残りの時間を整理に充てることができる。私の場合、DMMの購入動画の履歴を削除したりyoutubeの視聴履歴を消したりということもしなければならないが。

死に面した時、人間どのような行動をとるかということを冷静にできるかどうかというのはとても難しい問題だろう。ただ、まずは心を静めて自分がやってきたことの整理と、あとに残される人へのできうる限りのことを考えることは必要だろう。A氏の思いは、生に執着しているといえばそうとも言えるが、『己の生きた跡を残したい』という欲望の表れに思えてしまった。自分の過去自体を否定したくはない気持ちもあるだろうが、まずは自分がしてきた1000件のコンサルティングの冷静な検証や、その人たちへのアフターフォローに力を注ぐ方がA氏の人生にとって必要なことではないのかという思いを抱いた(1000件の案件がすべて成功していて今でも成長しているということはあり得ない。実際、A氏がコンサルしたとHPにある企業のうち数件は、自己破産などの結果今では存在しない企業だ)。

死を前にして人生観が変わった、という人は多い。しかし、その『変わった』人生観で、本当に何がなされるのか、なすべきことは他にないのか、ということを省みたり、それを見抜いてアドバイスできる人は少ない。

願わくば、A氏は『改心』したというのであれば、自らの今までの仕事を検証することから始めてくれればと思う。私もそういう立場になったら、しっかりと反省することから始めたいと思う。あとは動画履歴の削除と。


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