112.「カタカムナ文明 美の文化 民族の根」

 今日は、カタカムナ文明の中の美とか文化に対する考え方の民族の根にあ
る部分について書いていきたいと思います。
 上流智識人はともかく「美」などとは全く無関係にみえた古来の貧しい人々の生活の中に、世界のどの民族にも稀な実に美的な民芸品を、手近の材料で安価に、まことに豊富に創り出して居た日本の庶民は無意識のうちに、自ら、天然自然の為す「美的」なワザの中にとけこんで生きていたことになります。しかし、無意識でやって居ることにはもろさがあり、いつ覆されて消滅するかもわからない。「美」は、やはり、人間の知性が、それを「美」とサトルところから「文化」と言うるものが、昇華されてくると思われます。
 ただし、民芸品が高価な飾りものになり、何もしらずに美しい民芸品をつくっていた無名の庶民が、なまじ意識をもち出せば、もはやそこから、本来の「美」は失わせることになります。とかくこのような事が起こって古くからの美しいものが、近代化の波と共に亡び去ってゆくのは、まだ、その「美」を支える「知性」の度が、民族的に未熟の故と思われます。
 私達が外国を旅行し、日本では見られない華麗な宮殿や、豪奢な寺院の美に感動する一方、たまたまゆきずりの町角の民家の窓の手摺りの鉄細工の模様や、その窓辺に咲いていた色鮮かな花とか、又、名もしらぬ田舎の村でふとみつけた小さなロマンの教会のたたずまいの素朴さとか、その中にひっそりとひとり膝まづいていた女性の姿とか、あるいは古い家並の軒につるされていた古風なランタンや、パン屋や鍛治屋の古めかしい看板等といった何気ない平凡な昔からの庶民の生活のスガタのその健やかな落ち着きの確かさにいたく打たれる事があるのは、この間までは日本にも至る所にみられたものが今や急速にあるいは殆ど失われてしまい、かえって遠い異国で、はからずもそれに出あったことへの感慨であり、それは、又、我々日本人の「美」の感覚には、民族の根の共通性がある事を考えさせてくれるのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?