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ありありと蘇ってくるその風景についての話

不可思議なタイトルから初めてみたが、これはいったいどういうことか。
まずは、本題には触れず、どうでもいい雑談から始めたい。

Twitterの過去ツイートを、2016年まで遡ってみた

ふと急に思い立ち、やってみたのである。とっても面白くて、自分の姿勢の変化を感じるのだ。
東大に入学して、それ以前からだったのか、入学後に自意識が肥大したのか、妙に偉そうで皮肉めいて攻撃的な表現が多い気がする。
歯に衣着せぬ物言いに、憧れちゃってる恥ずかしげな様子まで感じちゃう。

けど、消さずに残しているから、「あぁ、恥ずかしかったなこの頃の自分」と、客観視もできている。黒歴史でも、ちゃんと消さないってだいじだ。それも自分なのだから。

新卒の会社の結婚式の二次会に参加して思ったこと

主役の2人が、それぞれ浦高・早稲田・パーソル出身ということもあり、非常に共通項が多く、なんだかこそばゆい気持ちになった。同じような景色を、見ていた気がしてしまって。
この歳になって、客観的に見ると恥ずかしくなっちゃうような男子校ノリと、ほんとに自分はここにいたんだっけかと、疑いたくなってしまうような美男美女といい人だらけな新卒の同期たちの様子。

でも会が進んでいく中で、新卒の時の話をしたり、浦高の知り合いと浦高生の話をしたりする中で、胸に去来する想いや記憶があった。
今ここにいる自分はあの頃の自分とは変わってしまったけど、たしかにそこで生きていた自分がいたことを。
新卒での振る舞いなんて、今思えば恥ずかしくて思い出せたもんじゃないが、でもまぁそんな気のはやりも含めて「若かったな自分」と捉えてもいいなと思えるくらいには、少し余裕が出て、ちょっぴり大人にもなれた気がする。

過ごした日々と、共に見た風景だけは不変である

突然哲学じみたことを言ってみたくなる夜があり、まさに今がそうなのであるが、まさに言いたいことはこれに尽きる。
自らの記憶とは、誰にも犯されない聖域であり、自分が自分であることをより鮮明に映し出す鏡のような存在であると、今僕は思っている。

男子校の中で、バカになって騒いでいた自分もそう
新卒で入った会社で、尖ったスタンスを曲げずにいとも容易く潰れた自分もそう
それでも、あの架電だけは意味がわからなかったとやっぱり思う自分もそう

生きて、また生きていると一つ一つの記憶が積み重なって、1日として同じでなく、少しずつではあるが、しかし確実に変化している自分が毎日生まれていくのだ。

そして、その風景は

いつかまた思い出せたら、幸せな人生だと思おう。
その時を楽しみに、また記憶の箱をそっと閉じて、眠る。

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